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中国で虐殺・人口大激減が起きた6回の大乱世

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中国の歴史を見てみると、太平の世を謳歌して大いに発展し、世界最大の大国になった時期がある一方、大乱世の時期もまた多い。日本と比べると乱世が激しいのも特徴で、虐殺や荒廃などにより人口が10分の1に減ってしまう、などという日本では考えられない事が起きる。そこで、今回は中国史上人口がもっとも激減した6回の大乱世について紹介してみたい。なお、数字については諸説あるため参考程度に。

 

安史の乱(755~763年)

 

 

教科書でも習うこの乱は、節度使である安禄山と史思明が唐王朝に向かって起こした反乱である。玄宗皇帝により唐は最盛期を迎えていたが、この反乱により曲がり角を迎えた。まさに坂道を転がり落ちるように最盛期から急激に滅亡に向かっていった。

 

かの有名な楊貴妃の悲劇もこの際におきたものであるが、実際にはこの反乱で亡くなった民衆は非常に多い。安史の乱前の唐の総人口は5823万であったが、この戦乱とその後の飢饉のため3593万が死亡、残ったのは2230万だけであったという。

 

南北朝時代の混乱(439~589年)

 

 

この時代は日本ではあまりなじみがない時期であるが、三国志がダークフェイスの晋により280年に統一されて一時的な平和が訪れた。しかし、この晋も長続きせず、分裂し、以後北朝と南朝に分かれて目まぐるしく王朝が変わっていく時代が続くことになる。

 

北魏が滅びた際、中国北方地方では大規模な騒乱が続き、たびたびの戦争に巻き込まれた。また、南北朝時代の末期、南方でも侯景の乱など大規模な騒乱が発生し、当時の中国の総人口3000万人あったものが、この時期に1800万人が亡くなったと言われている。その後、隋が再度中国を統一した時には1200万人しか残っていなかったという。

 

黄巣の乱(875~884年)

 

 

黄巣の乱は唐王朝末期の大規模な農民反乱。この黄巣の軍は洛陽、長安を陥落させ”大斉”を名乗ったものの財政基盤を欠きすぐに討伐された。黄巣軍の軍紀は極めて悪く、虐殺は当たり前、甚だしきに至っては人肉を軍の食料としたりした。

 

上記の安史の乱から約100年後に起こったが、この反乱を鎮圧した朱全忠が唐王朝から禅譲を受ける形で王朝(後梁)を開いたことにより、唐は滅亡することになる。

 

黄巣の乱が鎮圧された後の唐末の混乱、五代十国時代などの戦乱により、唐末の総人口が4947万人であったのに対して、唐が滅亡した後には1187万人まで減少していた。

 

明清の王朝交代(1644年~1681年)

 

 

明の滅亡と前後した混乱に加えて、さらに事態を悪くしているのが清が全土に強制した辮髪である。満州族が中国大陸を制圧すると、敵味方の区別をするために「薙髪令(=辮髪令)」を1644年と1645年に出して辮髪を強制した。漢民族にとってこの髪型は屈辱であった。

 

また、儒教では毛髪を含む身体を傷付ける事は「不孝」とされており、一種のタブーであったため漢族は辮髪導入に強く抵抗した。「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」と言われたくらい多くの人が髪を切る事を良しとせず虐殺されたという。また、これを機に仏門に入った人も多かったという。

 

ちなみに、この時期に起こった二つの大虐殺を紹介したい。

 

一つは、明末に四川で農民反乱を起こした張献忠のエピソードである。もともとは軍隊にいたが、法律を犯して除籍されると、反乱を起こし、四川に大西(1644~46)という国を興して皇帝を僭称した。残酷な殺戮を好み、自分の民衆を清朝に奪われるくらいなら殺害してしまう、ということで「屠蜀」(中国語で”屠”は皆殺しの意味)と呼ばれる四川での大虐殺を起こした。1578年(万暦6年)310万2073人いた四川の人口は、1685年(康熙24年)には1万8090人にまで急減したと言われている。この虐殺により、四川の文化や言語は途絶えてしまい、現在の四川人はほぼ周りの省から移民してきたものであり、言葉も「西南官語」と言われる北京語に近い言葉になったと言われている。

 

2つ目は、清と南明との闘いの間に1645年に起こった揚州大虐殺である。ヌルハチ第15子のドドが、抵抗を続ける南明への見せしめとして揚州で80万人を虐殺したと言われている。このエピソードは後に、辛亥革命の時期に、清の残虐性を示すものとして、民衆に広く宣伝されたという。

 

このような様々な事件もあり、この王朝交代期に2500~4000万人が死亡している。

 

モンゴル帝国の勃興(1206~1368年)

 

 

「降伏するか皆殺しか」と恐れられたモンゴル騎馬民族。これは征服をしやすくするため意図的に自分たちで流布したのではないかという説もあるようであるが、 容赦の無い略奪や全員抹殺など、モンゴル軍が通った後には死体の山が築かれた。

 

中国語には屠城(とじょう)という言葉があり、これは「城内の全ての人間を屠殺する」ことを意味する。征服王朝である元や清ではたびたびこのような虐殺が行われたようである。また、三国志の曹操が徐州を攻略する際にも、数10万人を大虐殺したことで有名であるが、これを中国語で言うとまさに屠城となる。

 

ンゴルの勃興により、アジア全土を含めると7000万人の人が亡くなっているようであるが、中国ではその半数程度か

 

三国志時代(184~280)

 

 

後漢の末期におこった黄巾の乱から始まり、晋により中国が再度統一されるまでの期間の約100年間。黄巾の乱後に起こった稀な大疫病や、長期におよぶ戦乱により人口は大激減した。呉に至っては兵力不足により台湾まで兵士狩りに行っていたという。

 

ちなみに、この頃の人口・経済の中心地は華北であり、呉や蜀は人口の少ない後進地帯であったという。江南地方が天下の穀倉地帯となったのは晋以降の事である。

 

人口であるが、後漢滅亡前には5000万人居たものが、267年時点で3国を合わせて1000万人未満まで減少していたという。

 

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まとめ

 

以上、中国の大乱世を紹介してきた。このように厳しい競争の歴史の中で、中国では様々な優れた思想や外交術、そして人間関係が構築されてきたのである。このような歴史を知っていると、日本でも人気のある「孫氏の兵法」が、非戦を最上の策としているのもなんとなく理解できる

 

ちなみに、大乱世については事欠かない中国、上記以外にもまだまだ大変な時期や事件(例えば靖康の変)があるのであるが、これはまた別途ご紹介したい。

 

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