中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、漫画)から、清末に中国の実権を握った西太后の物語をご紹介。西太后は満州貴族 葉赫那拉(エホナラ)氏の出身で、これが中国語のタイトル「那拉(ナラ)氏」となっている。中国三大悪女などと呼ばれ悪名高い人物であるが、詳細を知っている日本人は少ないと思う。言葉遣いも平易で、中身も面白く、絵も素晴らしいので大人でも楽しめる内容になっているので、無料の伝記漫画(マンガ)と思って気楽に読んでみてはいかがでしょう。
なお、過去の王朝や西太后を封建制として過度に悪く書いている感じもするが、連関画が作られたのが共産主義下の中国であり、封建主義により人民が抑圧されていた、と考える政治背景、時代背景があるという事を考慮して読むのが良いであろう。
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漫画でわかる中国語連環画『那拉氏NALA SHI』01 日本語翻訳(那拉氏 西太后)
中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、漫画)から、清末に中国の実権を握った西太后の物語をご紹介。西太后は満州貴族 葉赫那拉(エホナラ)氏の出身で、これが中国語のタイトル「那拉(ナラ) ...
(26)八大臣を騙すため、那拉(ナラ)氏はわざと粛順などに幼い皇帝が即位する時に群臣に褒賞を与えるという詔書を起草させた。八大臣は昇官、昇給とした。しかし、実際には、裏で彼女は八大臣の罪状をすでに作っていた。八大臣も拒否しきれず、9月23日に咸豊帝の棺桶が北京にもどると宣告した。
(27)帰還の際に、那拉(ナラ)氏はまた策略を巡らし、八大臣の中の首謀者である粛順に棺桶を送る責任者として大路を行かせ、彼女は載垣(さいえん)、端華(たんか)などと、小路を通り先に行った。このようにして、北京に着く前に、八大臣の勢力を分散させた。
(28)9月29日に那拉(ナラ)氏は先に北京に戻り、その晩に恭親王”六鬼子”を宮殿に呼び、政変の準備をした。
(29)次の日の朝、王公、大臣たちが宮殿にご機嫌伺いにやってくると、那拉(ナラ)氏は奇襲攻撃で、八大臣の職務を解くことを宣告し、その場で載垣(さいえん)、端華(たんか)などを逮捕した。その時、粛順は棺桶を守りながら、やっと密云まで着いたが、那拉(ナラ)氏が派遣した官兵により逮捕された。
(30)すぐに、那拉(ナラ)氏は皇帝の名義で、八大臣の罪状を宣告した。そもそも咸豊帝は彼らを”皇帝の補佐を行う大臣”に任命していない、さらに彼らが外国の侵略者と”一生懸命交渉していない”など。彼女は粛順を処刑とし、載垣(さいえん)、端華(たんか)には自刃を命じ、その他の5人は職を解いて、地方の軍隊に流刑し苦役させた。
(31)那拉(ナラ)氏の政変が成功した後も、彼女は帝国主義列強が支持しないことを恐れて、すぐには表舞台には出なかった。彼女はイギリス公使館に人を派遣して彼らの意見を意見を聞いた。実際には、これらの侵略国の強盗達は、那拉(ナラ)氏を気に入り、裏で彼女が舞台に上るのを支持した。
(32)那拉(ナラ)氏は安心した。彼女はまず幼い皇帝の即位の式典を行い、年号を”同治”とし、両皇太后が一緒に国家を治める事を示した。11月1日、鈕祜禄(ニオフル)と一緒に、表舞台に登場し、垂簾聴政を宣言した。彼女の仲間の阿諂はへつらい、鈕祜禄(ニオフル)氏を慈安皇太后、俗称東太后と尊称し、那拉(ナラ)氏を慈禧皇太后、俗称西太后と尊称した。
(33)那拉(ナラ)氏は表舞台に登場すると、売国奴、人民への危害者としての一面を早速あらわした。彼女は外国に膝を屈し、一生懸命に帝国主義と一連の不平等条約を結び、国内では曽国藩や李鴻章に軍の大権を与えて、彼らに太平天国の革命運動を鎮圧させた。
(34)これらの反動的な施策は、彼女の主人である西欧列強の観心を獲得した。イギリス、アメリカ、フランス、ロシアなどの強盗は彼女に武器を与えただけでなく、軍艦や軍顧問なども派遣し、太平天国軍を攻撃する手助けをした。アメリカのごろつきフレデリックは洋槍隊を組織し、中国人民を虐殺した。
(35)フレデリックが中国人民を虐殺したのは特に残忍であったが、那拉(ナラ)氏は彼に破格の三品の位を授けた。このアメリカのごろつきは太平天国軍に殺害されたが、那拉(ナラ)氏は両親を亡くしたかのように、彼のために祠を建てて、その中に“同じ敵と戦った”という大きな額を飾った。
(36)同治三年(1864年)、那拉(ナラ)氏は内外の反動武装勢力の力を使い、太平天国の首都天京(今の南京)を陥落させた。曽国藩、曽国荃は天京の人民に対して最も残酷な大虐殺を行った。
(37)続いて、那拉(ナラ)氏は曽国藩に、僧格林沁(センゲリンチン)を助けて北方の捻軍を鎮圧させた。同治四年(1865年)、捻軍は山東で清軍を大敗させ、清軍の統領である僧格林沁(センゲリンチン)を殺害し、清朝の反動的な気勢に大いに打撃を与えた。
(38)那拉(ナラ)氏は大変驚き、急いで李鴻章を派遣した。しかし、捻軍は農民群衆からの深い支持を得ており、彼らは山東などの8省を転戦し、同治7年(1868年)にやっと清王朝に鎮圧されたのであった。
(39)これと同時に、那拉(ナラ)氏はまた各地の少数民族が起こした暴動も鎮圧した。数えきれない南方の山々が廃墟となり、広大な北方の原野に、革命人民の鮮血が流れた。これが、那拉(ナラ)氏のいわゆる”同治中興”である。
(40)那拉(ナラ)氏は陰謀を駆使して表舞台に躍り出た。彼女は自らの統治が徐々に落ち着いてきたと思うと、一緒に政変を起こした手先の処分に着手した。兵部の侍郎である勝保は自ら功績があると思っており、いつも「もしも私が兵を引き連れていなければ、八大臣を捕まえることができたか?」と大口を叩いていた。
(41)那拉(ナラ)氏は、自分が過去に行ったひどいことを他人が話すのを最も嫌っていた。勝保の話が彼女の耳に届くと、彼女は殺意を持つようになった。同治二年、那拉(ナラ)氏は口実をつけて勝保を逮捕し、自殺を命じた。
(42)同治十二年(1873年)、皇帝載淳(さいじゅん)は18歳となり、封建の礼制に基づくと、彼は自ら権力を掌握する必要があった。那拉(ナラ)氏は世論に押されて、垂簾聴政の撤回を宣言したが、実際にはたびたび干渉し、権力を手放さなかった。これに対して、同治帝は非常に不満で、いつも彼の先生である李鴻藻に不平をこぼしていた。
(43)翌年、思いがけず、同治帝は重病を患った。伝説によると、彼は李鴻藻を呼び、先生の前で皇后の阿魯特(アルート)氏に「私が死んだら、誰を皇帝にしたいか?」と尋ねたという。皇后も那拉(ナラ)氏の専横にとても不満であり、自分は皇太后などという名前は要らないので、年齢が大きい甥を皇帝にしたいと言った。
(44)同治帝には息子がおらず、李鴻藻に命じて、その場で遺言を書かせて、年齢が大きい甥の溥澍(ふじゅ)に皇位を継承させようとした。こうすれば、那拉(ナラ)氏の垂簾聴政を排除できたのである。
(45)これは非常に重要なことであり、那拉(ナラ)氏の認可が無くては通らない。李鴻藻は同治帝の寝室を離れると、恐怖で冷や汗が出た。彼は那拉(ナラ)氏を怒らせたら命が無くなると恐れて、遺書をもって、急いで那拉(ナラ)氏に報告に行った。
(46)やはり、那拉(ナラ)氏は息子の遺言を見ると、怒って両眼を見開き、歯軋りした。その場で、李鴻藻を罵って、遺言をビリビリに破った。
(47)那拉(ナラ)氏は怒りがおさまらず、同治帝の医者に対して、看病をやめさせ、食べ物も与えなかった。いく日もせず、同治帝は亡くなった。
(48)同治帝が死んだ後、那拉(ナラ)氏は秘密にして喪を発しなかった。その日の深夜、“六鬼子”を呼び、彼の妹の息子載湉(さいてん)を密かに宮廷に連れて来させた。載湉(さいてん)はこの時わずか4歳で、彼の父親は醇親王奕譞(えきけん)であった。彼は那拉(ナラ)氏の甥であった。
(49)次の日、那拉(ナラ)氏が養心殿で王公、大臣と謁見した際、大臣達は「皇帝の容態はいかがですか?」と尋ねた。那拉(ナラ)氏は気にせず「問題ない」と答え、逆に「もしも皇帝がダメだった場合、誰が継承する?」と尋ねた。大臣達の意見は紛糾し、どのように答えて良いかわからなかった。
(50)那拉(ナラ)氏が醇親王奕譞(えきけん)の子、載湉(さいてん)が皇位を継ぐべきだと言うと、大臣達は呆気に取られ、醇親王はその場で驚き昏倒した。那拉(ナラ)氏はやっと「皇帝はすでに崩御した」と言った。このようにして、載湉(さいてん)が皇位を継ぐことになったのである。
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