中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、漫画)から、清末に中国の実権を握った西太后の物語をご紹介。西太后は満州貴族 葉赫那拉(エホナラ)氏の出身で、これが中国語のタイトル「那拉(ナラ)氏」となっている。中国三大悪女などと呼ばれ悪名高い人物であるが、詳細を知っている日本人は少ないと思う。言葉遣いも平易で、中身も面白く、絵も素晴らしいので大人でも楽しめる内容になっているので、無料の伝記漫画(マンガ)と思って気楽に読んでみてはいかがでしょう。
なお、過去の王朝や西太后を封建制として過度に悪く書いている感じもするが、連関画が作られたのが共産主義下の中国であり、封建主義により人民が抑圧されていた、と考える政治背景、時代背景があるという事を考慮して読むのが良いであろう。
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漫画でわかる中国語連環画『那拉氏NALA SHI』02 日本語翻訳(那拉氏 西太后)
中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、漫画)から、清末に中国の実権を握った西太后の物語をご紹介。西太后は満州貴族 葉赫那拉(エホナラ)氏の出身で、これが中国語のタイトル「那拉(ナラ) ...
(51)新しい皇帝が光緒帝である。彼の年齢は小さく、同治帝と一緒であった。このようにして、那拉(ナラ)氏と鈕祜禄(ニオフル)氏は2回目の垂簾聴政を行った。清朝の慣例によれば、同治帝の子供の代に引き継がれたら、彼女たちは太皇太后(祖母)となり、礼制にのっとり引退すべきであった。
(52)同治帝の死後、皇后の阿魯特(アルート)氏は那拉(ナラ)氏の目の敵となった。那拉(ナラ)氏はいつも彼女を罵倒し、また「お前は私の息子を殺し、また皇太后となりたいのか」と言った。
(53)阿魯特(アルート)氏は那拉(ナラ)氏の猛威を、じっと我慢していたが、同治帝の死後100日と絶たずに死んでしまった。自殺と言われている。しかし、外部には”過度に嘆き悲しみ”亡くなったとされた。ある御史が裏事情を知らずに、彼女の”徳”行を表彰しようと上奏すると、那拉(ナラ)氏は大いに怒り、この御史をくびにした。
(54)2度の垂簾聴政は、ともに那拉(ナラ)氏が仕組んだもので、東太后の鈕祜禄(ニオフル)氏は付け足しのようなものであった。目的がすべて達成されると、那拉(ナラ)氏はこのつけたしも必要なくなった。噂によると、ある日東太后が魚で遊んでいると、那拉(ナラ)氏からのお菓子を宦官が持ってきた。
(55)東太后がこれを一口食べると、お腹が急激に痛くなり、医者が着く前に亡くなってしまった。那拉(ナラ)氏が話を聞いて駆けつけると、とても悲しんだ様子で、死体を片付けさせると運び出した。慣例によると、これらの事は死者の親族がやってきて、やっと出来ることである。
(56)東太后が突然亡くなったという情報が伝わると、大臣たちはとても驚き、みな急いでやって来た。この時、那拉(ナラ)氏は自ら死体の傍らにおり、彼らはみな近くで見ることができず、また多くを語るものもおらず、退出して葬式を行った。宮廷における謀殺事件は、このように隠蔽されたのである。
(57)恭親王”六鬼子”は、一手に那拉(ナラ)氏が表舞台に上るのを手伝ってきた。光緒十年(1884年)、那拉(ナラ)氏は”因習がひどくなった”、”偏見による間違い”を理由として、彼を軍機処から追い出した。これにより、軍事の一切は、那拉(ナラ)氏が掌握することとなった。
(58)まさにこの年、フランス帝国主義がベトナムを併合し、さらに中国を侵犯するため、中仏戦争を引き起こした。中国の軍隊は前線で奮戦し、フランスの侵略者に手痛い打撃を与え、重大な勝利を得た。
(59)しかし、那拉(ナラ)氏は中国軍に撤退を命じ、戦ってはいけないと厳命した。彼女は李鴻章を派遣して、フランスの侵略者と密かに講話させた。その結果、中国は戦勝国にも関わらず、屈辱的な中仏条約に署名した。この恥知らずな売国行為には、侵略者たちも驚いた。
(60)まさに帝国主義国家が中国侵略を加速していた時、那拉(ナラ)氏は個人的な享楽のために、海軍の経費を流用して、数千万両を費やして、頤和園の大規模補修を行った。
(61)光緖十三年になると、幼い皇帝もまた大人になった。那拉(ナラ)氏は礼制のため、再度権力を渡す演技をしなければいけなくなった。彼女の仲間は、彼女の気持ちを汲んで、次々と彼女の垂簾聴政を延長するように上奏した。
(62)また2年立つと、光緖帝も結婚しなければいけなくなり、那拉(ナラ)氏は自分の実の姪を皇后として、皇帝への監視をさらに厳しくした。
(63)光緒十五年(1889年)、那拉(ナラ)氏もさすがにこれ以上垂簾聴政を延長する理由を探すことが出来ず、垂簾聴政を撤廃することを宣言した。表面上は頤和園で引退したが、密かに人を派遣して皇帝の監視を欠かさなかった。
(64)彼女はさらに、何日かおきに、光緒帝が頤和園に行って政務の報告を行い、彼女の指示を仰ぐように規定した。光緒帝が毎回訪問する時、まず門の外に跪いて会見を待たなければいけなかった。宦官の李蓮英は光緒帝など眼中になく、故意に到着の報告を遅らせ、光緒帝は長い時間跪いて待っていなければいけなかった。光緒帝は皇帝であるが、実際には傀儡であった。
(65)頤和園で、那拉(ナラ)氏は政治をコントロールしながら、食べたり、飲んだり、遊んだりして、金を湯水のように浪費した。食べたり、飲んだりした後は、トランプで遊んだ。彼女がトランプをする時、勝つことはあっても、負けることは許さなかった。まさにごろつきのような博打打ちであった。
(66)毎月、1日と15日、彼女のために演劇が行われた。また祭日には、さらに盛大な演技が行われた。演劇は宮廷内の劇団以外にも、外部の有名な劇団も招いて、彼女のために娯楽を提供した。
(67)精神的な空白を埋めるため、犬も彼女の趣味となった。彼女はたくさんの豪華な犬の服を作らせ、犬に着させて、一緒に写真を撮った。
(68)光緒二十年(1894年)、陰暦の干支は”甲午”であり、那拉(ナラ)氏の60歳の誕生日であった。盛大にこれを祝うため、紫禁城の西華門から西の郊外の頤和園まで、大きな土木工事を行った。道沿いの40里あまりに、装飾のアーチや演劇・音楽の台を作り、贅沢三昧で人民の血と汗の税金を湯水のように使った。
(69)那拉(ナラ)氏がまさに祝いの準備に忙しい時に、日本帝国主義が朝鮮と中国に侵略し甲午戦争を起こした。全国人民はみな抗戦を求めたが、那拉(ナラ)氏は虎を恐れるように、戦争が彼女の誕生祝いの式典と衝突するのを恐れて、前線に抗戦を許可しなかった。
(70)作戦を指揮していた李鴻章は、この主人の意図を深く理解していた。彼は戦力を温存しながら、徐々に後退した。前方で、2,3人の将軍が勇敢にも反撃したが、何の役にも立たなかった。陸軍も戦うたびに敗れ、数百里を失った。海軍は何度も戦いに出るように求めたが、李鴻章は海湾を死守するように命令した。結果、陸海両軍はすべて滅亡してしまった。
(71)最後に、那拉(ナラ)氏は彼女自身により敗局を作り出してしまった。国内の主戦派の世論を抑え込み、李鴻章を日本に派遣して敗戦処理をさせた。光緒二十一年(1895年)、売国奴李鴻章と日本敵国主義は馬関条約(下関条約)を結び、台湾、澎湖などの島嶼部を日本に割譲し、賠償は2億両の白銀に達した。
(72)情報が伝わると、全国が驚き、群衆は怒った。まず、台湾の人民と愛国的な官兵が次々と武器を取って、日本占領軍と戦闘を開始した。しかし、那拉(ナラ)氏はなんと、台湾軍民への封鎖、禁輸を実施し、日本侵略軍が中国の領土を占領するのを手助けした。
(73)北京城の門の上に、ある人が憤慨して「とどまることのない長寿、全国民が祝っている。三軍は負け、土地を割譲して平和を求める」という詩を書いた。また、別の人が「一人にお祝いがあった。とどまることのない長寿」という詩を改変して「一人にお祝いがあれば、永遠に国土がなくなる」とした。これは(ナラ)氏が売国し栄誉を求めた絶好の描写であった。
(74)まさに帝国主義が中国を分割しようとしている瀬戸際に、資産階級の改良派の代表である康有為(こう ゆうい)は、北京に居た科挙の試験を受けに来た人たちと連絡を取り、光緒帝に上奏分を提出した。条約を拒否して、遷都して交戦し、変法維新することを要求した。また、もし台湾を割譲すれば、ロシア、イギリス、ドイツなどの国が必ずこれに倣い、最後には国が亡びると指摘した。
(75)康有為(こう ゆうい)、梁啓超(りょう けいちょう)、譚嗣同(たん しどう)や厳復(げん ふく)などの改良派の人たちは、各地で学会や学校を設立し、新聞を出版し、広く変法維新を宣伝し、救国を訴えた。彼らは科挙の廃止や、学校を盛んにする事、立憲君主制を主張した。瞬く間に、全国に改良運動の機運が広まった。
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