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中国最古の王朝”夏”の復元図!”華夏”を知っていますか?

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長らく幻の王朝だと思われていた中国最古の王朝”夏”が、最新の調査で実在したと分かってきた。でも、最古の王朝はどのような様子だったのか?近年、最新の調査により徐々に明らかになりつつあるので、今回は簡単に紹介したい。夏王朝というのは、中国文化に非常に深い影響を与えた特別な王朝であったと言えるのである。

 

夏王朝の成立

 

夏王朝は司馬遷の「史記」に登場する最古の世襲王朝である。紀元前1900年~1600年頃まで続いたと言われている。

この頃の王朝は、中国全土を統一していたわけでなく、それは夏成立より2000年近く経過した秦の登場を待たなければいけない。中国の黄河流域、いわゆる中原を支配したのみにすぎないと言われている。しかも、大きな都市を中心とした都市国家であったと言われている。

夏王朝の首都があったのはずばり河南省の二里頭村と言われている。正式にはあの有名な洛陽といえばピンとくるかもしれない。河南省洛陽市偃師市翟鎮二里頭村である。

 

Google地図でいうとこのあたりである。まさに中国最初の都市国家はこの洛陽市から生まれていたことになる。

 

夏王朝の復元図

 

それでは早速、気になる夏王朝の復元図をご紹介したい。これはNHKによって作成され、TV放映された復元図であるので、かなり信ぴょう性が高いと言えるだろう。

 

人口は約2万人と推定されている。今の基準から考えると少なく思えるかもしれないが、3000~4000年前の当時を考えると世界最大級の大都市であったと言われている。下の写真の右手前が貴族が住んでいた一角で、奥が一般庶民が住んでいた家である。

 

当時の王が住んだ宮殿。実はこのころから、北京の故宮につながる建築様式が確立されていたと言われている。王の宮殿の前に大きな広場があり、ここに多くの人が集まり、集会や儀式を行ったと言われている。

 

夏王朝の特徴

 

この夏王朝が後の中国の歴史と諸王朝に与えた影響は非常に大きいと言われている。その中からいくつかを紹介したい。

 

甲骨文字

 

現在に伝わる漢字は夏王朝で行われた占いや儀式で使われたと言われている甲骨文字がもととなっている。夏王朝の甲骨文字は王や貴族だけのものであったが、後の殷や周により他民族にも広がり、話し言葉が異なる人たちの意思疎通を可能にし、広大な中国を統一する原動力となったと言われている。

 

王の象徴の竜

 

二里頭の遺跡からはなんと竜の飾りが出土している。夏王朝が、王の権威の象徴として、竜を使っていたと言われている。この頃は王であったが、後に皇帝という言葉が生まれると、竜は皇帝の象徴となっていく

 

稲作などの耕作

 

この夏王朝の遺跡からは、粟(あわ)や小麦、水稲を栽培した跡が見つかっている。これが何を意味するかというと、一種類の作物に依存することなく、複数の作物を安定的に供給することができたという事で、当時としては非常に多かった2万人という人口を養うことができたということである。このような、耕作の技術を発達させたのも夏王朝の大きな特徴であり、そもそも夏王朝の建国物語では黄河の治水に成功し、作物を安定供給でいた禹が初代王となったとある。

 

青銅器の製造

 

青銅器というと下の写真の左側のような色を思い浮かべるかもしれないが、実際には、右のような金色の輝きをしている。この製造技術は一部の人により独占させ、特に王の権威を示すために活用されたと言われている。古代に、こんなに金に輝くものを見せられたら敬服してしまう、という事であろう。

 

宮廷儀礼

 

清の時代まで続く宮廷の儀礼はこの時代から徐々に形作られたと言われている。上にあった宮殿の写真を見てもわかる通り、様々な儀礼が行われていたと言われている。ちなみに、余談であるが、戦乱の春秋・戦国時代である紀元前500年頃に生きた孔子は、古代の礼儀を理想とした。夏→殷(商)→周と伝わった礼儀が失われたのを嘆いていたが、彼自身は実際にはこの礼儀の作法をあまり知らなかったといわれている。

 

まとめ

 

というわけで、簡単に夏王朝の実態についてまとめてみた。ちなみに、夏王朝は中国史上大変意義の大きな王朝であるが、それは日本人が想像する以上のものがある。夏王朝から生まれた言葉に「華夏(huá xià)」がある。これは、中華と夏王朝があわさった言葉であるが、「中国」そのものや「中国人」を表す漠然とした概念である。

 

 

このように、中国の文化の裏にある夏という王朝の影響の深さがうかがえる言葉である。

 

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