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君は雷鋒(らいほう)を知っているか?中国語の漫画で分かりやすくご紹介

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雷鋒という人物を知っていますか?この人物、日本ではまったく有名ではありませんが、中国ではとても有名で、あの毛沢東が「雷鋒に学べ」という標語を作ったくらいです。中国のボランティア活動にも大きな影響を与えています。この雷鋒がどのような人物なのか?連環図を使って彼の物語を分かりやすく説明したいと思います。中国人は皆、彼のことを知っており、社会に大きな影響を与えた人物ですので、共産党に興味がなくとも、彼を知っておけば中国のビジネスを円滑に進めることができると思います。

 

雷鋒の略歴

 

湖南省長沙の出身で、幼いころに両親と兄弟をなくし天涯孤独となる。その苦労をばねに、共産党の児童団や中国共産主義青年団に入り、中国各地の農場や工場で作業するなどの奉仕活動を続けた。

1960年には人民解放軍に入隊したが、1962年8月15日、遼寧省撫順市望花区で電柱を輸送中のトラックを立て直す作業中、頭を強く打ち死亡した。わずか22歳での殉職だった。

 

雷鋒が中国に与えた影響は?

 

このように略歴だけ見ると特に大きな業績を上げたわけでもない平凡な人物であるが、なぜこれほどまでに有名になったのか?

彼の死後、毛沢東などの共産党指導者の言葉を引用した日記が発見され、雷鋒が共産主義や軍人の思想的モデルとして大きく取り上げられるようになったためである。

1963年3月5日には毛沢東によって「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動が始められ、文化大革命中には各種新聞や学校教科書で盛んに用いられ、雷鋒は共産主義を信奉する模範兵士として、無私の象徴として偶像に祭り上げられた。現在でも町の広告に雷鋒に学ぼうという言葉が乗ることがしばしばある。

雷鋒の出身地の長沙と殉職地の撫順には「雷鋒紀念館」も建てられており、また、3月5日は「雷鋒に学ぶ日」となっており、学生たちが公園や街路の掃除、老人ホームを慰問するなどのボランティア活動の日となっている。

 

連環画「雷鋒」日本語訳

 

連環図とは50~70年くらいまで中国で良く読まれていた絵物語(ほぼ日本の漫画に相当)の事である。現在中国では廃れてしまったが、小さい時にこの連環図を読んでいた大人はまだまだたくさんいる。昔の中国の子供は連環図で三国志などの歴史や、西遊記などを読んで育った。また、政治宣伝にも積極的に使われていた。

この雷鋒も子供向けの道徳や共産主義を宣伝するために使われたものであるが、内容も面白いのでぜひ読んでみることをお勧めする。

 

共産党員の雷鋒同士は貧しい家庭に生まれて、小さい時から地主階級の迫害を受けたが、毛首席と共産党が彼を寒さと飢えという苦難の中から救い出した。解放後は、党の不断の教育の下で急速な成長を遂げ、彼は階級により生まれた苦痛を忘れることなく、社会主義の事業のために青春のすべてをささげることを決心し、偉大な無産階級の戦士となった。雷鋒同士は農業における戦いで治水において模範となり、優秀な機械のオペレーターであった。鞍山鋼鉄では、彼は連続して3回先進的生産者に、18回模範的な個人に、5回紅旗手に選ばれ、また鞍山市社会主義建設青年積極分子代表大会にも出席している。部隊でも、彼は多くの功績をあげて、五良戦士、節約の模範的個人に選ばれ、模範的共青団員の称号も獲得し、撫順市人民代表にも選ばれている。雷鋒同士は我が国の広範な青年と全国人民の学習の模範となった。この連環画では、雷鋒同士のこれらの偉大な栄光ある足跡を紹介したい。

向雷锋同志学习 毛泽东(Xiàng léifēng tóngzhì xuéxí; máozédōng) 雷鋒同士に学ぼう 毛沢東

(1)1939年12月30日、雷鋒は湖南省長沙県(元の望城県)安慶郷の貧しい農家に生まれた。動乱の時代であり、日本軍が祖国の美しい国土を踏みにじり、労働者は様々な場所に隠れて、抗日の炎は全国に広がっていた。

(2)雷鋒が生まれて以降、旧社会は彼に幾度となく打撃を与えた。父親は地主の譚四滚子に搾取されており、一家は牛馬にも劣る生活を強いられていた。また、日本軍がこの地域を占領した時、父親は日本軍に徴収され、けがを負い吐血して亡くなった。

(3)シングルマザーが生きていくのが難しい時代、資本家の工場で児童工として働いていた兄が肺炎を患い解雇されて家に帰ってきた。家には兄に治療をするお金がないだけでなく、生活のために、母は12歳の兄を病気のまま別の工場に行かせるしかなかった。

(4)劣悪な労働条件に加えて、病気もあり、兄の肺炎は重くなり、ついには亡くなってしまった。この悲劇に、母は悲嘆に暮れた。6歳の小さい雷鋒は涙をこすり足踏みしながら「兄さん!」と泣き叫んだ。

(5)しばらくして、弟も病を患い、満足に食べることもできず亡くなってしまった。かわいそうな母は、雷鋒が餓死してしまうのを黙ってみていることが耐えられず、雷鋒の命を守るため、雷鋒を連れて地主の譚四滚子の家に行ってお手伝いとなった。

(6)しかし、譚四滚子の息子は母親を強姦した。母親は悲嘆と屈辱の中、家に帰り、一日中、髪もばさばさで、涙を浮かべて、おかしくなってしまったかのようであった。小さい雷鋒はまだ母親の内心の苦痛が分からなかった。

(7)1947年8月11日の夜、母親は苦痛を堪えて、小さい雷鋒を呼び叔母の家に食べ物をもらいに行かせた。出発する時、母親は服を雷鋒にかけて、涙を浮かべながら、雷峰の幼名を呼びながら、物寂しい様子で「あなたの家の人たちがどのように死んでいったのか決して忘れないで」と言った。

(8)雷鋒が返ってきたとき、母親は首つり自殺していた。この残酷な扱いを受けた善良な婦女は、自らの死をもって、地主階級に、あの悪辣な旧社会に、最後の抗議をしたのだ。これにより、雷鋒は孤児となった。

(9)叔母は雷鋒を養子にした。雷鋒は物分かりの良い子供で、叔母の生活も苦しいのを見ると、山で薪を拾ってお金に換えて生活を助けたりもした。

(10)ある日、雷鋒が東山の上で薪拾いをしていると、地主の徐松林の母親に見つかり、説明する暇もなく、雷峰の刀を奪い取り、雷鋒の左手を何度か切りつけた。雷鋒はこの恨みを深く心に刻んだ。

(11)1949年8月になると望城県は共産党により解放された。地下党員であった彭徳茂が安慶郷農会第5分会の主席を担当し、のちに郷長となった。彭徳茂は日ごろから雷鋒に革命の道理を教えて、親切に彼に「我々の命を救ってくれた恩人は毛首席であり、共産党なんだ。大きくなった毛主席の言うことを聞くんだよ」と言った。彭徳茂の話は、小さい雷鋒の心に、初めて革命の種子を植え付けたのである。

(12)ある日の夕方、雷鋒が橋のところで見張りをしていると、前方から兵隊がやってくるのが見えた。あ、解放軍だ!雷鋒はうれしくてしょうがなかった。彼は興奮して兵隊を先導して村に入り、また村の幹部を助けて解放軍の宿や食事を手配した。

(13)次の日、解放軍は去っていった。雷鋒は一人の解放軍の兵隊を引きとめて「兵隊になりたい、仇を討ちたいんだ!連れて行って!」と言った。その兵隊は「お前の仇は皆が討ってくれるさ。早く大きくなって我々の新中国建設を手伝ってくれ」と、万年筆を渡し、一生懸命勉強して、毛首席のために良い学生になるように励ました。

(14)1951年、雷鋒は激しい土地開放闘争に参加した。彼は悲憤を込めて壇上に上がり、地主に対する深い恨みを訴え、人民政府が譚という姓の人間を銃殺し、彼のため、そしてすべての苦労を乗り越えてきた人達のために仇を討つのを自らの目で見た。雷鋒はこの闘争の中で、とても深い階級教育を受けたのであった。

(15)雷鋒は闘争の果実を得た。彼は分けられた上着を着て、彭おじさんがくれた鞄を背負い、無料で学校に行き勉強した。彼は字を学ぶとすぐに、ノートの上に”毛主席万歳”の五文字を書いた。

(16)学校で、雷鋒はずっと頑張って勉強する良い学生であった。学校が共産党の少年組織を作ると、雷鋒はすぐに赤いスカーフをつけて、間もなく少年隊の大隊長となった。彼はいつも友達に「我々は毛主席の少年隊員だから、今は一生懸命勉強して、大きくなったら我々の新中国を建設しなければいけない」と言っていた。

(17)1956年の夏、全国の農村で、農業合作化のピークを迎えた。雷鋒は高等小学校を卒業したばかりであったが、祖国の社会主義建設のために役に立ちたいという気持ちを我慢できなかった。彭郷長を訪ねて、農業生産に参加する決心を表明した。彭郷長は、彼を郷政府の通信員担当とすることを決めた。

(18)雷鋒は郷政府のために手紙や通知を送ったり、統計やグラフを作るのを手伝ったりもした。彼ができる仕事であれば、積極的に仕事を探した。そのため、みんな、彼の仕事にはとても満足していた。

(19)雷鋒は農村でしばらく仕事をすると、組織上、彼は中国共産党望城県委員会の公務員となった。県委員会の張書記は彼をとても気にしており、よく革命烈士の勇敢な闘争の物語を彼に話した。雷鋒はいつも感動して「私はこのような人になりたい」と言った。

(20)ある時、雷鋒は張書記と一緒に会議に出かけた。道の上にネジが落ちていたので、前に蹴ってそのまま歩いて行った。張書記はこれを見ると、ネジを拾いに行った。

(21)雷鋒は共産党委員会の書記がネジを拾って何に使うのかとても不思議に思った。張書記は「我々の国家はまだ基礎がしっかりできておらず、これから建設しようと奮闘しているのだ。ネジが小さいからと見くびってはいけないよ、機械にはこれがないと動かないんだ。一滴の水が集まり川になり、米粒も籠にいっぱいになるんだよ」と言った。数日後、雷鋒は機械工場へネジを渡しに行った。

(22)雷鋒は張書記の指導を忘れず、無駄遣いをず、節約したお金はすべて貯蓄するようにした。彼は学習の進歩もとても早く、17歳になると、すぐに栄光ある共産主義青年団に加入した。革命部隊の中で、雷鋒はとても早く成長したのであった。

(23)しばらくすると、県の共産党委員会は団山湖に農場を開墾することを決定した。全県の青少年は積極的に党の要請に応じて、トラクターを一台寄付して、農場のお礼としようとした。雷鋒は自分の貯金をすべて寄付した。

(24)張書記がこれを知るととても喜び、雷鋒を早速農場へ派遣して、トラクターを操作させると、1か月と経たず、雷鋒は望城県一のトラクターの運転手となった。何回も農場指導者の表彰と激励を受け、県の青年社会主義建設積極者大会に参加した。

(25)1958年、大躍進が始まると、雷鋒は党の求めに応じて田舎を離れ、農業戦線から工業戦線へと移った。祖国の鋼の都、鞍山鉄鋼公司に仕事をしに行った。

(26)鞍山鉄鋼公司では、雷鋒はブルドーザーの運転手となった。ブルドーザーは大きく、雷鋒は身長が低かったが、彼は頑張って困難を克服し、立ったままブルドーザーを操作し、石炭を集める速度を保ちつつ、仕事の質もキープし、指導部の表彰を何度も受けた。

(27)生産の需要から、鞍山鉄鋼公司は鉱山にコークス工場を建設することを決定し、一部の人を集めて建設に参加させたが、雷鋒は一番最初に申し込みをした。現場に着くと、彼はいつも率先して仕事した。どのように困難な仕事でも、彼はいつも前向きだった。

(28)基礎の建設が始まったばかりのころ、作業員の宿舎もまだ建っておらず、雷鋒が作業員仲間と一緒に草の上で寝ていると、銭さんは南方人は北方人より寒さに弱いと思って、自分の布団を雷鋒に掛けたのであった。

(29)雷鋒は感動しながら「銭さん、私はいろいろと苦労してきました・・・」と言い、幼いころの苦労を話した。草の上で寝ていた人は、聞きながらみな涙を流した。最後に雷鋒は「祖国建設のため、過去と比べれば、将来を思いながら寝る場所があるだけでも幸せです」と言った。

(30)ある晩、突然、豪雨が降ったが、現場に積んであった7千余りのセメント袋にはシーツをかけていなかった。雷鋒は皆を集めて、救援に向かったが、シーツは十分無かった。雷鋒は自らの服を脱ぎ、また自らの布団までも上に被せた。最終的には、国家の財産はひとつたりとも損失しなかった。

(31)党が農業支援の要請を出すと、共青団支部も団員に、公社へ貢献するように求めた。雪の日の早朝、雷鋒は北方の厳しい天気の中、温かい部屋を出て、積極的に肥しを集めて人民公社に届けた。彼は合計2千斤あまりの肥しを集めた。

(32)1959年に徴兵制が開始されると、党総支部の書記は募集の広告を出したが、これが雷鋒の人民に対する熱愛と敵に対する恨みを激しく引き起こし、今すぐにでも軍隊に入り、革命の成果を守りたいと思った。次の日の朝、彼は共青団総支部の書記を訪ね「李書記、私は軍隊に参加し、祖国を守りたい」と訴えた。

(33)雷鋒はついに身体検査に参加する機会を獲得した。彼は他の人が皆、自分より体格が良く、検査を通れないのではないかと心配し、身長検査をする時に、こっそりつま先立ちした。軍医は笑いながら「ずるをしようとしてもダメだよ」というと、雷鋒は急いで「私を小さいと思わないでください、私はこれでもブルドーザーの運転手で、全身力いっぱいなのです」と言った。

(34)雷鋒の身長、体重はすべて軍隊の条件に満たなかったが、内科検査の時、医者は彼の手の傷を見た。雷鋒は「この傷は旧社会が私の体に刻み込んだ恨みです。2度とこのようなことが起こらないように、私は軍隊に参加したいのです」と興奮しながら言った。医者は彼にとても同情し、彼に徴兵局の指導者を訪ねるように提案した。

(35)雷鋒は新兵募集をしている荊大隊長を訪ねて、かれに旧社会に受けた苦痛を訴えて、最後に「世界にはまだ帝国主義があり、国内では階級社会の敵が復活を企んでおり、これこら考えると、私の心が銃を取って祖国を守るように催促してくるのです」と言った。荊大隊長は深く感動し、特別に雷鋒を受け入れることにした。

(36)1960年1月8日、雷鋒は光栄にも入隊を許された。彼はとてもうれしくて、全力で党に貢献しようと誓った。この日、彼は日記を新しいものに変えて、尊敬の念を込めて、日記の上に黄継光(朝鮮戦争の英雄で、身を挺して砲撃を止めて戦死した)烈士の遺影を貼り、英雄戦士から学んだ誓いの言葉を書いた。

(37)新兵の軍事訓練が始まると、背の小さい雷鋒が教練弾を持つと、ものすごく重く、全身全霊で投げても既定の距離に届かなかった。彼は「手りゅう弾も上手に投げられない兵士なんて」と焦った。指導員は我慢強く手りゅう弾を投げる方法を指導した。

(38)雷鋒は一生けんめい練習したが、やはりまだ標準には達しなかった。彼はグループの成績への影響を恐れて、「やはり背が小さいと遠くへ投げられないのか」と心の中ではとても憂鬱であった。夜になると、指導員が雷鋒を呼んだ。この時、霊峰が腕を上げるのにも苦労しているのを見て、彼の腕が疲れて腫れているのを知り、慰め励ました。雷鋒はとても勇気づけられた。

(39)雷鋒は宿舎に帰ると、腫れて痛む手で、日記帳を開き、新聞から自分で書き写した話を見つめた。小声で読みながら、黄継光の遺影を見つめた。これらの話は火のように、彼をたぎらせるのであった。

(40)雷鋒の全身には突然、力がみなぎり、彼は練習場まで掛けていくと、痛む腕に耐えながら、全身の力を込めて手りゅう弾を投げ、ついには優秀な成績を収めることができた。「私は困難の中で栄光ある革命戦士となるために、恥ずかしい逃亡は絶対にしない。私は暴風雨の中でも耐える松柏になりたいのであり、温室の中のもやしにはならない」これこそが、雷鋒の厳しく困難に立ち向かう誓いであった。

(41)新兵軍事訓練が終わると、雷鋒は輸送連隊の車兵に配属された。車兵の専門訓練の中で、雷鋒は一生けんめい勉強し、とても早く運転技術を向上させ、また技術学習チーム長に選出された。

(42)軍事委員会は皆に毛主席の本を読み、毛首席の良い戦士となるように命令を出した。雷鋒はいつも鞄を持ち歩き、時間があれば毛主席の著作を読んだ。彼は毛主席の著作を読み、どのような人間になり、誰のために生きるべきか、深く理解した。彼は毛主席の著作を食べ物や武器、そして車の方向指示器になぞらえた。

(43)雷鋒は毛主席の著作で思想を改造し、自らの行動の指針とした。彼は毛主席の「すべての革命部隊の人たちは、互いに関心を持ち、互いに守り、互いに助け合わないといけない」という言葉を心に刻んで、とても熱心に同志の世話をした。戦友の喬安山同士が文化程度が低いと感じると、雷鋒は「毛主席は警備戦士にも学ぶことを求めている」という文を読んで彼に聞かせた。

(44)喬はこれを聞くと、勉強しなければいけないと思い、すぐにペンとノートを買いに行こうとした。しかし、雷鋒すでに彼のために準備をしていて「持っていきなよ。現代化された解放軍になろう。文化がないのはいけないよ」と彼に贈りながら言った。喬はとても感動し、その後勉強で大きな進歩があった。

(45)雷鋒は他人に進歩があると、自分のことのようにうれしかった。他人が落ちこぼれると、辛かった。ある時、範同志が過ちを起こして批判を受けた。範は納得がいかず、雷鋒は積極的に彼を助けに行ったが、拒否された。

(46)しかし、雷鋒は気落ちしなかった。彼は、性根さえよければ進歩できると信じていた。何度も範を訪ねて話をした。範は感動して涙を流し、積極的に始末書を書いて、間違った部分を直し、最終的には五良戦士となった。

(47)雷鋒は自分のことよりも、つねに他人を気にかけていた。休みの日も、こっそりと他人の衣服をや靴下を洗ったり、布団を縫ったりして、忙しかった。

(48)ある時、雷鋒は偶然、周述明同志の手紙を見てしまった。彼の父は病気で、お見舞いをするか、お金を送りたいということであった。雷鋒は周述明が仕事に積極的であり、経済的に問題があっても、まったく個人の問題は語らなかったのを知っていたので、住所を書き写してきて、彼の名義で10元を送った。

(49)しばらくして、周述明は家からの返信を受け取った。「お前が送ってきたお金を受け取り、ちょうど医療費にあてた。父の病気も良くなりつつあるので、お前は安心して仕事をしなさい、家のことは心配しなくていい」と書いてあった。周述明はこれはどういうことか分からなかった。後になって、彼は雷鋒がお金を送ったと知り、感動してどうお礼を言えばよいのか分からなかった。

(50)雷鋒が仕事をする時には、まさに彼が言うように「夏の暑さ」のように仕事した。彼はいつも、体の中に使いきれない力があると感じていた。彼は自分の仕事をした後も、積極的に連隊の様々な活動にも参加した。彼は何度か連隊倶楽部の学習幹事を担当し、また文化教員も兼務し、2つの小学校の少年隊の指導員も行った。

(51)雷鋒はまた連隊の娯楽活動にも積極的に参加しており、毎回の演技で、彼の出し物は欠かせないものとなっていた。ある時、かれは標準語がうまく話せないので、演目には参加できなかったが、積極的にほかの人のために水を沸かしたり、買い出しをしたり、様々な雑務を行った。彼には個人的な利益は全くないのに、いつも仕事の需要の観点や、全体の利益から考えていた。

(52)ある日曜日、雷鋒はお腹が痛く、衛生連隊で病気を診てもらってから帰ってくる時、ある建築現場を通るとみなが一生懸命働いている場面に、彼は引き付けられた。この時、拡声器からレンガを運んでいる同志に頑張れという放送が流れてきた。レンガを積み上げている同志の効率が上がり、レンガが足りなくなっている、ということである。

(53)雷鋒はこれを聞くと、居てもたってもいられなくなった。レンガを運んでいるのは、ほとんどがボランティア労働に参加している幹部であり、みな喜んで仕事をしているように見えた。彼は腹が痛いのを忘れて、レンガ置き場に行き、運搬車を一緒に押した。現場ではすぐに、解放軍に学ぼう、の放送が流れ、皆、競うように頑張って運ぶようになった。

(54)放送員が走ってきて、雷鋒が楽しく車を押しているのを妨げて「同志、貴方はどの部隊から来たのですか?お名前は?もしも秘密でなければ・・・」と尋ねた。雷鋒は彼女の手を振りほどいて「解放軍に秘密なんてありませんよ。私は付近の部隊のものです」と答えて、車を押しながら去っていった。

(55)一日の仕事量が半日で終わってしまった。雷鋒が連隊に戻ろうとしていた時、皆が彼を取り囲み、白いワイシャツを着た人が握手し、感謝を示し、名前を訪ねた。放送員もやってきて「この方はこの工区の指導者です。秘密にすることないでしょう」と言った。

(56)雷鋒は彼と握手しているのが工区の指導者であるとは思わず、思わず驚いて恭しく「党の責任者の同志も第一線で我々を導いているなんて、社会主義建設が加速されるわけだ・・・」と言った。放送員は笑いながら「私たちが聞いたのはあなたの名前ですよ」と言った。雷鋒は小さな声で名前を言って、急いで帰ってきた。

(57)その夜、工人たちは赤い紙で会社の新聞を作り、太鼓や銅鑼をたたいて連隊に持ってきた。連隊長や指導者たちはみな何が何か分からなかった。みんながどういう事が分かると、ある人が雷鋒に「お前は腹が痛たかったんじゃないのか?」と尋ねると、雷鋒は笑いながら「ボランティア労働は腹痛を直せるということを発見したんだ」と答えた。

(58)雷鋒のことはすぐに部隊に伝わり、みんな彼は無産階級の怒りによって、強い社会主義の祖国を作りたいと思っていると言った。確かに雷鋒はこのような人であり、彼は、祖国が貧しい状態を一気に変えられないのをもどかしく思っていた。そのため、彼はいつも質素な生活を送り、彼の靴下は何回塗ったが分からないくらいだが、まだ履いていた。

(59)部隊は毎年2着の軍服を支給するが、雷鋒は一着しか受け取らず、もう一着は返して「一着あれば十分、破れたら直せばよい。国のために節約できるものは節約したい」と言った。雷鋒はこのように自分を律しており、仕事では積極性が一番高い同志を目指して、生活では生活水準が一番低い同志を目指していた。

(60)新兵の小于は無駄遣いしておやつを食べるのが好きだったが、雷鋒は彼に、彼が捨てた歯ブラシを拾ってきて、きれいに消毒してから再度使うように勧めた。小于はまったく理解できず「あなたは一人身で、家族や家業があるわけでもないのに、なぜこんなに節約するんですか?」と尋ねた。

(61)雷鋒は同意せず「誰が私に家や家業がないと言ったんだい?我々の祖国は大家族で6億人も人口がいるじゃないか?みんなが毎日一角節約出来たら、全国ではすごい金額が節約できる。祖国のこの貧しい状況を変えるため、毛主席は苦労して闘争するように言っている。このようにするのは間違っているかい?」と尋ねた。彼のこの言葉に小于は何も言えなかった。この後、小于は無駄遣いしなくなった。

(62)雷鋒は個人生活ではこのように節約していたが、集団の事業となるとすごく気前が良かった。彼は人民公社ができたという話を聞くと、すぐに銀行から200元をおろして、望花区和平人民公社へ行き、お金を机の上に置いて「私はずっとこの日を待ち望んでいました。これは私の望花区人民への気持ちです、受け取ってください」と言った。

(63)公社の共産党委員会の事務所の同志は深く感動し「同志、我々はあなたの公社を愛する気持ちを受け取りましたが、お金はやはり銀行に持って帰り国家建設を支援するか、もしくは家に送ってあげなさい」と言った。雷鋒はとても感動し「家に送るですって?人民公社こそ私の家です。だから、このお金は家のために使うものなのです」と言った。

(64)雷鋒は人民公社の同志に自らの身の上と気持ちを話し、最後に「共産党と人民は私にすべてを与えてくれました。私もすべてを人民と党にささげたい」というと、彼は話しながら涙を流したため、公社は100元のみ受け取った。このお金自体は決して多いものではなかったが、和平人民公社の全社員の精神上の財産となった。

(65)ある中秋節に、連隊のすべての人に4個の月餅が配られたが、雷鋒は自分と同じように悲惨な経歴の階級の人たちのことを思い出した。彼はすぐに慰問の手紙を書くと、月餅を近くの病院の鉱山労働者に送った。病人はみな雷鋒の励ましを受けて、早く退院して国のために”黒い金(=石炭)”をもっと多く生産したいと思った。

(66)1960年の夏、新聞で遼陽地区で100年に一度の水害が発生し、党中央と毛主席が飛行機を派遣して被災地の人民に食糧を送ったというのを見て、雷鋒はすぐに慰問の手紙を書いて、郵便局に行き、公社から帰ってきた100元を遼陽に送った。

(67)無情な水害が多発し、撫順地区も洪水の脅威を受けていた。8月3日、輸送連隊も洪水対策の命令を受けたが、雷鋒は体調が良くないため、連隊長は彼に家で休むように言ったが、雷鋒は皆と一緒に行きたいと言いはり、指導者たちも最終的には同意した。

(68)雷鋒は洪水の逃げ道を掘る仕事に参加したが、彼がまさに掘ろうとした時、突然赤い粘土が大水と一緒に流れてきて、雷鋒のスコップを流してしまったが、彼は手を使って土を掘った。指は出血し、ほかの兵士たちも治療に行くように勧めたが、彼は作業を続けた。やればやるほど嬉しくなってくるのであった。

(69)朝が来て、別の部隊と交代する時、連隊長は雷鋒の顔が青白いのを見ると、すぐに彼を支えて、何人かの兵士に彼を送らせて休みを取らせた。

(70)兵士たちは雷鋒を小屋に寝かせると、衛生兵に治療に行かせた。夕方になると、外で夜班の合図の音が鳴った。雷鋒は突然起き上がり、布団をのけて仕事に行こうとしたが、ちょうど連隊長が来たため、休憩するしかなかった。

(71)激しい暴雨が窓にザーザーと降り、衛生兵が気づかない時を狙って、雷鋒は布団をはねのけ、雨具をつけて、走って大雨が押し寄せる作業場へ向かった。恐ろしい洪水も、ついには英雄的な人民の前に退却した。雷鋒のこのような危険を恐れない革命精神は、部隊の指導機関の表彰と、広く人民の賞賛を受けた。

(72)ある夜、付近の工場で火事が起こると、雷鋒と戦友たちは一緒に救助に向かったが、雷鋒は向秀麗(広州の工場で火災が発生した際に身を挺して消火を手伝い亡くなった英雄)が身を挺して工場を守った英雄的なイメージを思い出し、すぐに大きな箒をもって屋根に上り、激しい炎と戦った。

(73)この時、消防隊が到着し、雷鋒と消防隊は一緒に消火を行った。靴は燃え、衣服も破れ、腕にけがをし、全身は水でぐっしょり濡れていた。炎がやっと消えると、彼はやっと息をついて、地上に立ってほっとした。

(74)雷鋒は毛主席が書いた”べチューンを紀念する(べチューンはカナダから延安にわたり医療活動中に亡くなった)”を何度も読み、べチューンの自己の利益を考えず他人のために奉仕する高尚な精神を学ぼうと志した。ある時、出張で安東に行ったのだが、電車に乗ると、旅客に新聞を読んでやり、党の方針や政策を宣伝し、国内外の大事を解説した。

(75)新聞を読み終わると、地面を拭いたり、テーブルを片づけたり、ガラスを拭いたり、婦女が子供を抱っこするのを助けたり、老人に席を探したり、お湯を届けたり、旅客を見送ったりした。皆は彼を「ボランティア列車員」と褒め、「雷鋒が1千里出張し、列車の中でずっと良いことをした」と言った。

(76)瀋陽で乗り換える時、一人の婦女が切符を無くして、買い直したいがお金が無くて、まさに列車が出発しようとして困っているのを発見し、雷鋒は一か月分の手当を取り出し、彼女のため切符を買ってあげた。雷鋒は他人が困っているのを解決するのが自分の幸せであり、彼はこのようにすることにより民衆は共産党と毛主席、そして解放軍をより好きになってくれると思っていた。

(77)雷鋒はこの婦女を列車まで送ると、この婦女は感激して涙を流しながら名前と部隊名を聞いた。雷鋒は笑いながら「私は解放軍と言い、中国に住んでいます」と答えた。解放軍、中国に住んでいる、これは何とすばらしい響きの革命集団主義、愛国主義の言葉であろうか、そしてなんと高尚な風格であろうか。

(78)またある時、雷鋒が出張で瀋陽を通ると、おばあさんがやってきたので、急いで立ち上がり、おばあさんに席を譲り、自分のパンを上げたりした。おばあさんは感動で手が震え、急いで席を詰めて「お若いの、あなたも座りなさい」と優しく言った。

(79)雷鋒はおばあさんの隣に座り、おばあさんと世間話をした。おばあさんは手紙を取り出し、撫順に息子を訪ねていくと言った。雷鋒は手紙の上の住所がわかりにくいのを見ると、同じ道なので、一緒に息子を探しに行くことにした。雷鋒は自分が活きているのは、他人に素晴らしい生活を送ってもらうためだと考えていた。

(80)撫順に着くと、雷鋒は自分の鞄を駅に置いて、おばあさんの荷物を背負って、おばあさんに付き添って、人込みを突き抜けて、代わりに息子の居場所を探した。

(81)2時間近くも歩き、やっとおばあさんの息子を探し当てた。母子は雷鋒の手をつかみとても感激した。雷鋒は日記の中にかつて「人の命は有限だが、人民のために奉仕することは無限で、私は有限の命を、無限の人民への奉仕のために使いたい」と書いていた。

(82)1960年11月8日、雷鋒は光栄にも中国共産党に入党した。この日、彼は日記に厳粛な誓いを書き残している。

(83)1961年6月、雷鋒が班長となると、彼が指導する班はずっと「四良班」の名誉を保った。彼は入隊して3年と経たず、二等功労賞を1回、三等功労賞を2回獲得し、五良戦士と節約の模範兵士にも選ばれ、模範的共青団の栄誉も獲得し、撫順市人民代表にも選ばれた。

(84)共産党と人民は彼に崇高な栄誉を与えたが、彼は毛主席の「謙虚さは人を進歩させ、傲慢は人を堕落させる」という教訓を肝に銘じて、すべての功労は党のおかげとして、常に謙虚な態度を保ち、一生錆びないネジになりたいと心に誓った。

(85)ある雨の日、雷鋒が車で帰る時、バックするのを手伝っていると、地上が水だらけで車が滑り、傾いた車から落ちた木の電柱がちょうど雷鋒の頭に倒れてきた。彼はすぐに意識不明となった。救急処置の効果なく、殉職してしまった。

(86)雷鋒はわずか22歳で亡くなったが、青春を無駄に過ごすことは決してなかった。彼は平凡だが偉大な一生により、我々のために輝かしい共産主義戦士のイメージを作り上げた。雷鋒が過ごしてきた道は、新中国の青少年に、いかに自らを頑強な無産階級の戦士とするかを示し、革命を引き継ぐ人たちの輝かしい前途となったのだ。

 

まとめ

 

以上、中国では非常に有名な雷鋒のお話でした。これを読むと、内容的には日本の道徳のお話とあまり違わない気もしますね。若干、連環図は若干ドラマティックに誇張されている部分もあるとは思いますが、個人的にはボランティア精神で学ぶことは多いと思います。

 

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