中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、中国式の漫画)から「孔子の罪深い一生」(原題:孔老二罪恶的一生)をご紹介。孔子と言えば中国では文聖とも崇められ、個人としてはおそらく最も尊敬されている最高の人格であるが、文革時代には、封建主義の象徴として、林彪と一緒に批判の対象となった。この時に書かれたのが今回の連環画で、孔子が非常に批判的に描かれており、貴重な資料となっている。ただ、孔子の一生を勉強するという意味では有益である。
※孔子の子は先生を現す尊称であるが、文革期には本名の孔丘と呼びすてされ、さらには孔老二(孔家の次男坊)と蔑称された
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漫画で分かる孔子の一生1(中国語連環画日本語翻訳)
中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、中国式の漫画)から「孔子の罪深い一生」(原題:孔老二罪恶的一生)をご紹介。孔子と言えば中国では文聖とも崇められ、個人としてはおそらく最も尊敬され ...
(21)37歳の孔子(孔丘)はがっかりして魯国に戻った。当時、魯国で権力を握っていた李氏などの新興封建勢力を敵視して、反乱分子が権力を握っていると思っていた。自らの政治主張を実現することができないと思い、家で生徒に授業をして、自らの反動影響力を拡大しようと決めた。
(22)孔子(孔老二)が学生を教えるにあたり、”仁”という字から離れることができない。彼は”克己復礼”をとなえた。この奴隷制を復活させようという反動的な綱領は「自制して礼を復興させ、天下を仁に帰す」と言っており、つまり自己に打ち勝ち、自らの言行を周の礼制と一致させる必要があると言っている。このようにすれば、天下の人は孔子の統治に帰順するのである。
(23)”仁”は孔子(孔老二)の反動思想の核心である。”克己復礼、天下帰仁”と唱えることにより、殷周の奴隷制度を復活させ、歴史の歯車を昔に戻そうとしているのである。この夢を実現させるため、彼は再三学生に「仁者には勇が必要で、奴隷と核心派に対して厳しく対処することで、奴隷主の統治を維持できるのである」と言い聞かせている。
TIPS:「仁」は孔子の儒教思想の根本概念ですが、孔子自身が明確な定義をしておらず、個別の説明が加えられているだけなので非常に理解しにくい概念。一般的には、”他者の心中を思いやること”であると解説される。ちなみに、同様に重要な”義”は”自己の利益を顧みずに他者のためにつくす”ということであり、孟子は”仁義”を最高道徳とした。
(24)樊遅という学生が居たが、仁の意味するところをはっきり教えて欲しいと求めた。孔子(孔老ニ)は真面目な顔になり「仁とは皆を愛することだ」と言った。彼はある時は奴隷の虐殺を肯定し、ある時は皆を愛するという。この使い分けは全く詐欺のような話である。樊遅たちは全く理解できなかった。
(25)講義の中で、孔子(孔老二)はいつも””仁義道徳”を話した。ある時、ある人がやってきて孔子(孔丘)に「私には同郷の古い友達がおり、正直な人間なのですが、彼の父が羊を盗み、彼はこれを告発しました。これは道徳なのでしょうか?」と尋ねた。孔子(孔老二)は彼に「私は、父親が羊を盗んだら、子供はこれを隠す、これこそが正直と呼ばれるものだと思う」と答えた。
(26)孔子(孔老二)の考えでは、お互いに庇い合うのが”仁義道徳”であったようである。学生たちも授業を聞いておられず、サボる者がどんどん多くなっていき、ある時には顔淵一人しか残っていない有様であった。顔淵は孔子(孔丘)のお気に入りの学生であった。彼は孔子(孔丘)に、少正卯というものが塾を開いていて、革新道理を教えており、皆そちらに行ってしまったと告げた。
(27)少正卯は新興地主階級の政治思想上の代表であり、しばしば奴隷制の代表である孔子(孔丘)とぶつかった。彼は「西周の奴隷制に囚われて、これを復興するために時代を後ろ戻りさせようとしている人がいるが、必ず壁にぶつかってけがをするだろう」と明言していた。孔子(孔老二)は歯ぎしりをして少正卯を恨んでいたが、どうすることもできなかった。
(28)紀元前513年に、晋国の核新派が、奴隷主の権益を制限する法律条文を鉄の鼎の刻んで、これを民衆に公布した。これにより、奴隷主貴族の特権地位は制限と打撃を受けた。”刑鼎”による法律公布は魯国社会を震動させ、孔子(孔老二)の学生の間でも議論が紛糾した。
TIPS:鼎に法律を刻んで民衆に公布する、という事がこの時期に開始された。春秋時代→戦国時代の移行期には戦争も大規模化し、富国強兵のための中央集権を進める必要があり、明文化された厳格に適用できる法律の必要性が高まっていた。時代はだいぶ後になるが、これを利用して強国化した秦が統一を果たすことになる
(29)孔子(孔老二)はこれに対して大いに反対し、カンカンになって「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず。晋国が刑鼎を作ったのは、身分の貴賤を区別しておらず、国家が国家の様相を呈していない」と怒った。彼は急いで周りを取り囲んでいた学生を追い払った。
TIPS:「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」というのは儒教の根本思想ともいうべき部分で、庶民は礼節を知らなくても仕方がないが、ひどい行いをしたら刑罰によって罰せられる、逆に身分の高い大夫は礼によって自らを律しているので法律は不要である、という意味である。君子は自らを律する高い道徳意識を持つべきであり、法律は道徳よりも下位であるとしている。身分を問わずに法律を適用しようとする法家とは、この点で根本的に対立した。
(30)孔子(孔老二)は、教師では志を実現できないと悟った。彼は奴隷制を復興させるには権力が必要だと悟り、官職を求める気持ちを抑えきれず、しばしば学生に「君子が一日とて官職につかないなどあってもよいのか?」と問うた。学生が「あってはなりません」と答えると、孔子(孔老二)は何度も頷き「私は3か月間も官職についておらず、心の中では不安が一杯なのだ」と言った。
(31)瞬く間に数年が過ぎたが、孔子(孔老二)はまだ官職に付けずにいた。ある日、授業が終わると、学生がやってきて「陽虎が人を派遣してきて、先生に会いに来てほしいと言っている」と報告してきた。「陽虎?」孔子(孔丘)はこの名を聞くと、若かりし時に季孫氏の門のところで彼に罵られたのを思い出し「先生は不在だと伝えてくれ」と言った。
(32)学生はとても困り「この陽虎は最近とても勢力があり、主人の季氏でさえ彼の手中で操作されています。それに、彼は肉をお礼にもってきています」と言った。孔子(孔老二)は急に閃き、とりあえず肉をもらっておくように言った。
(33)数日後、彼は陽虎が家に居ないのを確認すると、正装をして陽虎を訪ねた。しかし、ちょうど家に帰る途中で陽虎と出くわして、孔子(孔老二)はしかめ面をしながら、両手をあわせて、陽虎とあいさつをせざるを得なかった。陽虎は機会をうかがって彼に官職を探すといい、彼は何度もうなずいて礼を言った。
(34)しばらくすると、季氏傘下のもう一人の権勢がある家臣である公山不狃(こうざんふちゅう)が陽虎と連合して季氏に反乱を起こした。公山不狃(こうざんふちゅう)は季氏の本拠地である費都で決起し、彼と陽虎は孔子(孔丘)がずっと季氏に反対していたのを知っていたので、孔子(孔丘)を参謀として招こうと人を派遣した。孔子(孔老二)は心動かされ、とても費都に行きたかった。
(35)しかし、学生の子路は反対し「先生はいつも君は君、臣は臣と言われている。それが、公山不狃(こうざんふちゅう)が反乱を起こしのに、どうして彼のところで官職を得ようとするのか?」と反対した。孔子(孔老二)は下着を引きちぎりながら「周の文王や武王は最初は豊や鎬という片田舎から大きくなったではないか?ならばどうして私は費都から身を起こしてはいけないのだ」と言った。
(36)まさに孔子(孔老二)が行きたくてうずうずしているときに、陽虎は失敗して斉国に逃げ、公山不狃(こうざんふちゅう)はしばらく兵を動かさなくなったという情報が伝わってきた。官僚になる夢が潰えて、孔子(孔老二)は長い溜息をつき「ああ、私は50歳になったのに、物事は思い通りにならない、これは運命なのか」と嘆いた。彼はしばしば”天命”という言葉を口にした。
(37)孔子(孔老二)は学生たちに「死生有命 富貴在天(生死や豊かになるということは天命で決まっており、人間にはどうすることもできない)」という事を覚えさせた。また「上智と下愚とは移らず」と言い、奴隷主は生まれつきに聡明な上等な人であり、奴隷は下等な愚民で、永遠に変えることができない、と言った。彼は、唯心主義の天命論、天才論を声高に唱えて、これらを人民を使役する精神的な枷としたのである。
TIPS:死生有命 富貴在天(しせいようめい、きふざいてん)と、唯上智与下愚不移(ただじょうちとげぐとはうつらず)は孔子の代表的な思想なので覚えておくとよい。後者は、上記のような奴隷制とは関係なく、本来的には、本当に賢い人間はどんな環境でも向上することを忘れないし、愚かな人間はどのような環境でも学ぶことをしない、というような意味でつかわれる。
(38)しかしながら、50歳を過ぎると、孔子(孔老二)は突然魯国の政治舞台に躍り出た。魯の定公を代表とする奴隷主貴族が魯国で大権を握り、孔子(孔丘)を重用して魯の中都の宰(首都の行政を主管する行政官)とし、のちに、彼を工事を管掌する司空、法律を管掌する司寇へと昇格させ、また宰相の職務を代理させたのである。
(39)孔子(孔老二)は表舞台に出ると、すぐに奴隷制度を維持するために二つの事を行った。まず、魯の定公に「古い規定に則って、家臣たるもの自費で城を作ってはなりません。今のように、季孫、孟孫、叔孫の三者が費都、成都、郈都で覇を唱えていては、心腹の大患となります。この三都を滅ぼさなければいけません」と提案した。
(40)三都を滅ぼすことは、新興地主階級を鎮圧することであり、魯の定公は当然すぐに賛成した。孔子(孔老二)はすぐに兵を起こして、郈都を滅ぼし、次いでが費都も滅ぼした。しかし、成都は比較的堅固であり、孟孫氏と家臣が必死に抵抗したため、魯兵は数か月攻めてもこれを落とすことができず、撤退せざるを得なかった。
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漫画で分かる孔子の一生3(中国語連環画日本語翻訳)
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