中国共産党は党員9200万人を抱え、2021年7月に設立100周年を迎えます。世界最大の政党と言われる事がありますが、現在ではこれは間違いで、インド人民党が中国共産党を抜いて党員1億人以上で世界最大の政党となり、中国共産党は党員数世界2位の政党となっています。
※今回の内容はYoutubeで動画としてもアップされています
設立のミステリー
中国共産党は、1921年の7月に秘密裏に開催された中国共産党第一次全国代表大会により結成されました。しかし、その設立には様々なミステリーがあります。
・建党記念日は7月1日となっているが実際に会議が開催された日は7月23日であった
・報告書では建党大会の参加者は12人だが参加者を足し上げると13人になる
・中国共産党の結成に芥川龍之介がニアミスしていた
・会議中にスパイが踏み込んできて大騒ぎになり、会議が途中で解散された
・毛沢東が雄弁に演説したように伝えられるが実は無口だった
・会議参加者の13人は呪われたかのように不幸な末路を辿った
今回はこれらのミステリーについて3回シリーズで解説していきたいと思います。なお、中国国内では、中国共産党の建党を決定した第一次全国代表大会は伝説の会議とされてかなり脚色されていますので、今回は知りうる限り真実の模様をお伝えしていきたいと思います。
歴史に埋もれた会議の発掘
中国では公式の建党記念日は7月1日という事になっていますが、実際には、第一次全国代表大会は7月23日から開催されています。何故このように日にちが異なっているのでしょうか?
共産党は1921年に設立されたものの、当時は列強の侵略と国共内戦など激動の時代であり、しばらくは設立の記念日を祝うような雰囲気はありませんでした。1938年頃になるとやっと設立を祝おう、という機運が党内で生まれたものの、そもそも紙で残った記録が全く無く、詳細を調べることが難航しました。
後で詳細に見てみますが、この頃には第1回大会に参加した人々の多くが離党したり亡くなっており、また毛沢東も含めて生き残っている人たちも開催日や開催場所の記憶があいまいな状態でした。7月頃に開催したのは間違いないという事になり、建党記念日を7月1日として七一建党節として祝うようになりました。
その後、第2次国共内戦や日中戦争の混乱で、詳細の調査が進まないまま時間が過ぎ、1950年代末にロシア側で当時の報告書が見つかり、7月23日に開催したという事が判明しました。この頃にはすでに20年に渡って7月1日に建党節が祝われていたため、そのまま7月1日が記念日として残ったと言います。
なお、ロシア側の資料で開催場所と参加者もこの時やっと一緒に明確になりました。ロシア側の公式資料では参加者は12人となっていましたが、実際に参加した人を足しあげると13人となり、参加人数さえ異なるなど、まだ謎が残るままでした。
その後、大躍進や文化大革命の混乱で調査が進まず、1980年代以降になり関係者へのインタビューなどにより少しづつ、参加者やその発言内容などの様子が明らかになっていったと言います。
時代背景
会議の詳細を見る前に、まず、共産党設立に至る国内外の時代背景を簡単におさらいしておきたいと思います。
清朝末期から、明治維新により先進国の仲間入りを果たした日本に学ぼうという機運が高まり、多くの中国人留学生が日本に渡るようになりました。1902年には500人だった中国人留学生が、翌年には1000人になり、最も多い時では1万人ほどが日本で学んでいたと言われています。
1917年にロシアで革命が発生し世界初の社会主義国家が成立すると、世界中の多くの若者が共産主義に傾倒し、中国の知識人も社会主義・共産主義への関心を高めていきます。
そのような中、1919年に第一次世界大戦が終了し、パリ講和条約で日本の21か条要求が認められると、中国国内で反日本・反帝国主義運動が発生します。この時、日本に留学していた中国人学生の間でも授業ボイコットや帰国が相次いだといわれています。
1919年5月4日になると、北京の学生らが主導し反日・反帝国主義運動である五四運動が発生します。この運動は、全国に広がり、中国初の全国的ナショナリズムの発露として共産党と国民党の両方から高く評価されることになります。
ナショナリズムが高まりを見せる中、中国各地に共産主義を掲げるグループが結成され、1921年には国際的な共産党組織であるコミンテルンの呼びかけにより、各地の共産主義グループを集結させる形で上海において中国共産党が結成されることになります。
国内では、軍閥が割拠する中、孫文率いる国民党が国内の統一を虎視眈々と狙っていましたが、まだまだ実力が足りず、西欧列強の反植民地化は進み、中国国内はバラバラの状態でした。
思想的リーダーと日本の影響
次に共産党設立の2人の思想的リーダーと日本の影響を見ておきたいと思います。
中国国内で盛り上がったナショナリズムに合わせて、西欧の思想を中国に紹介し、国民の覚醒を目指す運動の最前線にいたのが上海で雑誌「新青年」を発行した陳独秀と、北京大学の図書館長を務めた李大釗で、この二人が初期の共産党の活動を思想的にけん引しました。この2人は、南の陳独秀、北の李大釗と呼ばれていました。
中国における社会主義思想の普及と共産党の結党には、日本が大きく影響を与えています。当時、中国の多くの知識人はがそうしたように、中国における社会主義・共産主義者も日本を通じて共産主義思想を吸収していました。
一足先に近代化に踏み出した日本には既に、西洋の主要文献の翻訳や、解釈書が存在し、漢字を含む日本語訳は中国人にとって効率よい教材になっていました。
陳独秀と李大釗は共に日本に留学しており、マルクス主義について日本の経済学者・河上肇らの影響を強く受け「新青年」にその著作をほぼそのまま掲載していました。
「共産主義」や「革命」といった中国語も実は、西洋思想の概念の日本語訳を彼らがそのまま転用したものになります。中華人民共和国の「人民」と「共和国」も日本から輸入された和製漢語として有名ですが、皆この時期に、このような経緯で中国に輸入されたものでした。
また次回紹介する中国共産党結党の13人のうち、4人が日本に留学しており、日本の影響がかなり強かった事は公然の秘密となっています。ソビエトはもちろん中国の共産主義に強い影響を与え結党の資金を援助しましたが、日本の思想的な影響はまるで故意に軽んじられているように語られる事はありません。
各地での共産主義グループの結成
1917年に発生した五四運動以降、中国の各地で小規模の共産主義グループが産まれるようになっていました。北京、上海、済南、武漢、長沙、広東に加えて、海外では日本やフランスでも結成されています。
1920年になると国際的な共産主義組織であるコミンテルンの使者がウラジオストクから北京にやって来て、李大釗と面会し、彼の手引きにより、上海の陳独秀と接触することになりました。これを機に、陳独秀はかねてより社会主義に関心を有していた若者たちを集めて、コミンテルンと連絡を取りながら、共産主義政党の立ち上げに向けて活動を開始することになります。
1921年コミンテルンからマーリンとニコルスキーが上海にやってきて、陳独秀と面会しようとしましたが、この時期、陳独秀は広東に行っており不在でした。代わりに、上海グループの中心人物であった李漢俊と面会し、全国の共産主義グループを集めて共産党を結成するように促しました。李漢俊は陳独秀と李大釗に了承を得ると、各地の共産主義グループに手紙で招集をかけます。手紙の内容は「7月20日、上海にて会議を開催する。代表2名を送られたし」というもので、交通費として100元が支給されたと言いますが、この資金はコミンテルから出たものでした。
結党の場所と芥川龍之介
最初にも話しましたが、中国共産党が結成された第1回全国代表大会の開催日が判明したのは、中華人民共和国が建国されたあとの1950年代末のことで、ロシア側で大会当時のロシア語の報告資料が見つかり、そこには上海フランス租界の党員の住宅で、7月23日に会が開かれたと記されていました。
その場所というのが、日本の東京帝国大学(現在の東京大学)への留学から帰国した李漢俊の上海の自宅でした。ちなみに、芥川龍之介がたまたま大会の3カ月ほど前に、大阪毎日新聞の特派員としてこの場所を訪れ、「上海游記」という訪問記を残しています。
芥川龍之介は会議が開催された応接室を「長方形のテーブルがひとつと椅子が2,3あり、テーブルの上には陶製の果物が飾られている以外は、とくに装飾品はなく簡素なものであった」と描写しています。この描写は「上海遊記」の李人傑インタビューに出てきます。青空文庫で無料で読むことが出来ます。
芥川龍之介『上海遊記』(青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/51215_56381.html)
※「十八 李人傑氏」が李漢俊の家を訪問した記録
大会が行われたその部屋は現在では復元され「中共一大会址(ちゅうきょういちだいかいし)記念館」として公開されています。
中国共産党第1回全国代表大会
各地の共産主義グループに「緊急招集」がかかり、各グループから2名の代表が出席することになりました。会議は当初、毎日場所を変更して行われるはずでしたが、いざ開かれると、毎日、李漢俊の家で行われました。フランス租界にあり、また兄である李書城が当時、国民党の高級官僚であったため、官憲の目をくらますにはうってつけの場所でした。この時、兄はちょうど出張で不在にしていました。
急な開催となり、思想的なリーダーであった李大釗と陳独秀は多忙により出席できず、会議の進行役は北京から出席した張国燾が務めています。初日の23日にはコミンテルンからやってきたマーリンとニコルスキーも参加し、2日目からは中国人の独自性を重んじる、ということで彼らは参加しませんでした。
会議はプロレタリア独裁を明確に打ち出すか、また労働争議への関与方法や、孫文率いる国民党を支持するか、などの問題などを巡って紛糾します。特に、革命の父として尊敬されていた孫文の不支持が決議されると、衝撃を受けた参加者も多かったと言います。
7月30日に中国ではとても有名な事件が発生します。その日、会議を開いていると、突然ドアが開いて、見知らぬ男が顔を出して部屋の中をきょろきょろと見まわしました。家主である李漢俊が誰かと尋ねると、男は「上海各界連合会の王会長に会いたい」と返事したと言います。そんな男はいない、と答えると「すまん、間違えた」と言い残して去っていきました。
この日、偶然参加していたマーリンが「きっと密偵だ、会議は即刻中止して、みな分散しろ」というと、皆その場を逃亡します。家主の李漢俊が残っていると、数分後に3人のフランス人警官と4人の中国人警官がやってきて、一時間近く家探しをしました。武器が無いかとばかり気にしていたようで、作りかけの共産党綱領の草案には目もくれずに難を逃れます。
何も発見できなかった警官たちは「今日のところは証拠が無いので、許すことにしましょう」と言い残して去っていきました。
このまま上海で会議を継続するのはもう危険だと考えた代表たちは、上海の近くにある浙江省嘉興(かこう)の南湖に場所を移し、屋形船を借り切って8月1日に最後の会議を開きます。カモフラージュのために食べ物をもちこみ、舟遊びだと称して、終日議論したと言います。この最終回の会議で、中国共産党の綱領が採択され、共産党中央局の書記に陳独秀、宣伝部長に李達、組織部長に張国燾を選出しました。
上海と南湖の会議が開かれた場所は現在観光名所となっており、義務教育の歴史教育でも教えられる有名な場所となっています。
以上、今回は設立の背景と第一回全国代表大会の様子を見てきましたが、次回は、設立にかかわった人物の詳細を見ていきたいと思います。