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中国共産党設立物語(下)悲劇の結末【2021年建党100周年】

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共産党設立物語の最終回となる今回は、共産党設立に関わった人たちのその後を見てみたいと思います。中国共産党第1回全国代表大会に参加した13人とそれに関わった人たちは、まるで呪われているかのように、そのほとんどが悲劇的な末路を迎えます。 中華人民共和国設立後まで生き残り「中国共産党員」として名誉を保ち続けたのは毛沢東と董必武の二人のみでした。

※今回の内容はYoutubeで動画としてもアップされています

李大釗の悲劇

1921年に中国共産党が設立されると、1924年にはコミンテルンの指示により共産党と孫文の国民党の国共合作が成立します。しかし、1925年に孫文が亡くなると、その後継者である蒋介石が1927年に上海クーデターを起こして共産党員を弾圧し、国共内戦に突入します。

 

蒋介石が北伐を行っていた1927年に北京を支配していたのが奉天軍閥の張作霖であり、彼は共産党の背後にいるソビエトの影響を恐れ、国交断絶を覚悟のうえで、ソ連大使館に軍隊を派遣し、大使館に隠れていた多くの共産党員と武器・弾薬を押収します。

 

李大釗は、北京政府が共産党弾圧を開始した1925年以降、ソビエト大使館に避難していましが、この時、張作霖により逮捕されます。多くの人から助命の嘆願が出されましたが、彼は絞首刑となり、38歳という若さで無くなりました

 

南の陳独秀、北の李大釗と並び称された思想リーダーの片翼がなくなり、中国共産党は大きな支柱を失うことになりました。李大釗はその功績と、なによりも革命のために命をささげたことにより、共産党では現在でも語り継がれる重要人物となっています。

 

陳独秀のその後

一方、初代書記となった陳独秀は、李大釗とは異なり数奇な運命を贈ることになります。国民党との協力には否定的であったものの、コミンテルンからの指示を受けしぶしぶ1924年の国共合作に同意しますが、1927年に上海クーデターが発生すると、ソビエトは陳独秀にすべての責任を押し付け、書記を辞任させます。

 

その後、陳独秀は、スターリンと思想的に争っていたトロツキーを支持するトロツキストに転向し、1929年には中国共産党から除名されることになります。ちなみに、トロツキーはスターリンとの権力闘争に破れて国外に逃亡し、メキシコでスターリンが放った暗殺者により殺害されました。スターリンはロシアの社会主義革命はロシアの努力で維持できるとしていたのに対して、トロツキーは世界革命を訴えていました。

 

トロツキー「永続革命論」  :ロシア革命の成果を維持するためには世界革命が必要である

スターリン「一国社会主義論」:ロシア革命の成果はロシア一国の革命努力で維持できる

 

1931年に中国トロツキストの統一組織である中国共産主義同盟を結成してその総書記となりますが、国民党と共産党の両方を敵に回した中国のトロツキズム運動は瞬く間に壊滅し、1932年に蒋介石の国民党によって逮捕されました。陳独秀は5年間服役し、出所後は重慶郊外に引きこもり、共産党や共産主義との関わりを断ち、貧しい生活を送ったのち1942年に63歳で病死しました。

 

彼には「右翼日和見主義者」「漢奸」「日本のスパイ」「トロツキスト」「反革命主義者」など様々なマイナスのレッテルがはられましたが、2000年以降、彼に対する評価は急速に見直され、現在では名誉は回復されつつあります。彼は、雑誌「新青年」を創刊し、五四運動を主導し、共産党の初代書記となったという3つの功績を持ち、本来であれば中国共産党において間違いなく毛沢東をもしのぐ重要な人物ですが、中国国内ではまだ正統な評価を受けているとは言い難い状況です。

 

最近、中国で放映された共産党100周年を記念するテレビドラマで、彼が「著名な革命家」として紹介されて、主役級の扱いをうけており、これを見て彼の評価が高まっていることを実感しました。

 

設立13メンバーの末路

次に、設立大会に参加した13人のその後の運命を見ていきたいと思います。

 

中国共産党は設立後も内部闘争に加えて、蒋介石が1927年に上海クーデターを国共合作を終結させてからは「千人間違って殺しても、一人の共産党員も逃がすな」という厳しい指示を出したため、多くの共産党員や社会主義者が殺害されています。ちなみに、日本軍により殺害されたものが居ないあたりを考えると、やはり共産党は日本との戦闘を避けて、国民党に抗日戦争を任せていた事がうかがい知れます。

 

まず最初に、革命の中で命を落とし、その後も高く評価されている人たちを紹介します。

 

李漢俊(りかんしゅん)

李漢俊は共産党設立の中心的なメンバーでしたが、その後、武漢で行った大規模ストライキが失敗し、北京に移っていた兄のもとに身を隠しました。そこで北京市政府で臨時の仕事をしている際に、思想の違いにより共産党を離党することになります。

 

その後、武漢に戻り国民政府の要職に就きましたが、彼は中国共産党と国民党の間を取り持とうとしていたようです。1927年8月1日に共産党による南昌蜂起が発生すると、牢屋に捕らえられていた共産党員が虐殺されることを防ぐため釈放するなど支援を行いました

 

その後、鎮圧に訪れた国民党軍に対して学生たちと抵抗運動を行い、その混乱のなかで逮捕され処刑されました。このような経緯もあり、彼は共産党を離党しましたが、死後も高い評価を受けています。

 

王尽美(おうじんび)

済南代表であった王尽美は労働運動を先導しましたが革命運動の中で持病の結核が悪化して若くして亡くなります。

 

鄧恩明(とうおんめい)

同じく済南代表であった鄧恩明は、革命運動の中、密告により国民党政府に逮捕されて、これまた30歳という若さで殺害されることになりました。

 

陳潭秋(ちんたんしゅう)

武漢代表であった陳潭秋は、日中戦争の混乱の中で、新疆軍閥により逮捕され、極秘裏に処刑されます。彼の死は極秘にされ、死後も1945年に、本人不在のまま共産党中央委員に選任されました。

 

何叔衡(かしゅくこう)

毛沢東と同じ長沙代表であった何叔衡は、ゲリラ戦を展開しましたが、福建省で国民政府軍との戦いの中で亡くなっています。

 

特に、王尽美、鄧恩明、陳潭秋、何叔衡の4人は共産党員として革命運動の中で犠牲となったため「革命烈士」として国民的英雄とされています。

 

次に、共産党を離党し、漢奸として亡くなった人たちのグループです。

 

周佛海(しゅうぶつかい)

日本代表であった周佛海はその後京都大学を卒業し、1924年の国共合作にタイミングを合わせて共産党を離党し、国民党に加入しました。国民党でとんとん拍子に出世し、その後、汪兆銘政権に参加して、知日派として行政院副院長、財政部部長、上海市市長などをの要職を歴任しましたが、戦後、漢奸として逮捕され、死刑判決を受けます。後に無期懲役となりましたが、獄中で心臓病のために死亡しました。

 

陳公博(ちんこうはく)

広東代表であった陳公博は、共産党からソ連へ留学せよとの命令をうけて、気が進まず共産党を離党したと言います。国民党政府から留学資金をもらい、コロンビア大学に留学し、帰国後は国民党中央執行委員、北伐軍総司令部政務局局長などの要職に就任しています。その後、汪兆銘政権に参加し、汪兆銘が名古屋で病死した後、南京国民政府の代理主席としてトップとなりました。戦後は日本へ亡命するもGHQにより中国に引き渡され、漢奸として処刑されました。

 

奇しくも、共産党設立に参加したこの二人が、中国では漢奸として嫌われる汪兆銘の南京政府のビッグ3(汪兆銘・陳公博・周仏海)となったのは運命のいたずらのように思えます。東条英機が1943年に南京を訪問した際に、この3人が一緒に写っている動画が残されています。

 

次に、共産党を離党し、新中国建国まで生きのびたものの、その後亡くなった人たちです。

 

李達(りたつ)

上海代表であった李達は、1923年には陳独秀と対立して離党します。離党後は武漢大学の教授に就任し教育畑で生きることになります。1949年に中華人民共和国が成立すると復党を果たして、武漢大学校長などの要職を歴任し、多くの名著を執筆し、研究者・教育者として全国に名を知られるようになります。しかし、1966年から文化大革命が始まると、知識人として真っ先にやり玉にあげられて迫害を受け、持病の糖尿病が悪化し、大量吐血して亡くなりました

 

包恵僧(ほうけいそう)

広東代表の包恵僧も早い段階で共産党を離党していますが、文化大革命時には周恩来に計らいにより大過なくやり過ごし、天寿を全うしています。彼は不遇のうちに死亡した陳独秀と特に仲が良く、陳独秀が死ぬ間際までその交際が続いていたと言います。

 

文革時に彼の娘が紅衛兵となり、当時、共産党を離党して反動者と言われていた陳独秀の手紙を100通あまり焼き捨てるという事件が発生しています。陳独秀の手記はあまり残っていなかったため、歴史的価値が非常に高かったのですが、この時、共産党設立の初期の歴史を知る重要な資料を失ってしまうことになりました。

 

張国燾(ちょう こくとう)

北京代表であった張国燾はことあるごとに毛沢東と対立したようで、長征の際にも、延安にむかった毛沢東と袂を分かって、西に向かい四川省西部とチベット東部のあたりに第2中央という根拠地を作っています。しかし、国民党に大敗して2万の軍が壊滅し、延安に逃げると毛沢東から冷遇され国民党に移ることになります。戦後、国民党と一緒に台湾に逃げ、香港に移住するも、文革の時代に共産党が香港に侵攻するという噂が流れるとカナダに亡命し、トロントの老人ホームで死亡したと言います。

 

劉仁静(りゅうじんせい)

もう一人の北京代表であった劉仁静も陳独秀と仲が良く、スターリンが上海クーデターの責任を書記であった陳独秀に擦り付けるとこれに反発し、トロツキストに転向し、それがもとで共産党を除名されました。その後は目立たぬように暮らしていましたが、文革が始まるとトロツキストとして糾弾されて、11年間も投獄されるという辛酸をなめています。

 

董必武(とうひつぶ)

毛沢東のその後は言うに及ばないので、もう一人の成功者の董必武について説明しておくと、彼は温厚な人柄で知られ、取り立てて敵対する相手もいなかったと言われています。上海でマルクス主義の教えを乞うた李漢俊については特に思い入れがあったようで、彼が武漢で亡くなると、遺族の生活を生涯にわたって援助、気配りしたと言われています。中華人民共和国が成立したのちも、機会があるたびに李漢俊のことを語りほめたたえています。ちなみに、文革で劉少奇が失脚すると、国家副主席としてその職務を代行しました。

 

まとめ

 

以上、3回にわたり、中国共産党設立について詳細に見てきました。2021年は共産党設立100周年ということで、共産党設立の歴史などが改めて注目されています。共産党設立の第1回全国代表大会は伝説の会議となり、多分に脚色される傾向がありますが、皆さんには史実は史実として正しく知り、それをどう評価すべきか、ぜひ考えるきっかけとしていただければ大変うれしく思います。

 

 

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