中国共産党は党員9200万人を抱え、2021年7月に設立100周年を迎えます。世界最大の政党と言われる事がありますが、現在ではこれは間違いで、インド人民党が中国共産党を抜いて党員1億人以上で世界最大の政党となり、中国共産党は党員数世界2位の政党となっています。今回は思想的リーダーと設立に参加した13人の詳細を見てみたいと思います。
※今回の内容はYoutubeで動画としてもアップされています
設立時の共産党
第一回全国代表大会に参加したメンバーは、それぞれの地域の共産主義グループを代表する人たちでした。彼らはプロレタリアート独裁を議論しましたが、自分たちは基本的にはエリートの集まりで、まだまだ学生グループに毛が生えた程度の組織でした。
設立時の党員は58人とされており、近年、その名前が明らかになりつつありますが、全員の名前が明確に示された名簿が残されていたわけではないため、本当に58人いたのかも現在となっては確認方法がありません。周恩来らはフランスに留学中で、外国で入党しています。
結成時に上海に集まった党員は13人でほぼ間違いありませんが、ロシアで発見された報告記録では12人とされており、どうも誰かが忘れられていたようです。
会議が急いで開催されたため思想的リーダーの2人、陳独秀と李大釗は多忙により出席できないという奇妙な形で会議は開催されました。初代の総書記には陳独秀が欠席したまま選ばれています。
陳独秀の物語
中国共産党の初代書記として有名な陳独秀は特に日本通で、合計5度日本に渡っています。幼いころに厳格な祖父に育てられ、科挙にも合格し、康有為、梁啓超らが唱えた「変法自強運動」に熱中し、日本に留学します。
1901年に日本へ留学した陳独秀は、短期間で何度か日本と中国を行き来します。この頃に中国政府から危険思想の持ち主として指名手配された事もありました。日本では当時は軍事教練学校であった成城学校で学んでいます。
中国で辛亥革命に参加し、袁世凱に反対する蜂起にも参加しますが、失敗して、失意のうちに日本に渡った際に早稲田大学に留学中の李大釗と知り合い二人は意気投合しました。
1915年に上海に戻った陳独秀はここで歴史を変えることになる雑誌「新青年」を立上げます。毎号約100ページの総合学術雑誌の体裁をとり、全国的な人気雑誌となりました。この「新青年」は国内外の様々な思想を紹介、話し言葉での文学を推進し、魯迅や胡適などの著名な文学者を生み出し、若き日の毛沢東も熱心な寄稿者でした。
1917年に蔡元培により北京大学の北京大学文科長として招かれ、新文化運動の旗手として学生を啓蒙しました。1919年に北京で五四運動が発生すると首謀者として逮捕されます。すぐに釈放されるも、北京大学から追われ上海に戻ることになります。上海に戻ると、国民政府からの招聘を受けて広東に赴きます。
1921年に上海で開催された中国共産党第一次全国代表大会には多忙のため出席できませんでした。広東で広東大学、後の中山大学の設立に向けた資金集めの準備をしており、そのため参加できなかったということです。
李大釗の物語
陳独州に並ぶ思想的リーダーであった李大釗は1913年に日本に留学し、早稲田大学政治学部で社会主義思想に出会い傾倒するようになります。日本で、反袁世凱運動を行い、さらに21箇条の要求が出されると、日本に対する抵抗運動を行いました。
1916年に帰国し、1917年に北京大学学長の蔡元培(さいげんばい)により図書館長に任命され、翌年には北京大学の経済の教授となっています。彼は日本の知識人と幅広い人脈を持ち、この頃、日本で次々に発表される社会主義に関する書籍や新 情報をほぼ同時進行で翻訳、発表し、中国における社会主義研究の第一人者となりました。また北京にあって、上海にいた陳独秀とロシアの橋渡しを行ったりもしています。
1921年に開催された第1回全国代表大会には多忙のため出席できませんでした。李大釗は当時、教育予算を削ろうとしていた北京政府との交渉を主導しており、ちょうど7月24日に政府との打ち合わせがあり参加できなかった、と言われています。
共産党結党後は第2期から第4期まで中央委員に就任しています。
北京大学学長 蔡元培(さいげんばい)の功績
ちなみに、共産党と関りがあるわけではありませんが、北京大学の蔡元培は覚えておくべき人物の一人です。1916年に北京大学の学長に招聘された蔡元培は、北京大学文科長として陳独秀を招き、李大釗を図書館長に任命しています。文科長とは文系学部の最高責任者で、北京大学の副学長といっても問題ないような重要なポストでした。
蔡元培は北京大学の改革に着手し、教授の充実、学科・学制の整備、科学研究機関の設立、平民教育の提唱と男女共学など様々な取り組みを行い、北京大学の学術教育と自由の校風を確立した人物と言われています。
彼は、陳独秀、李大釗のほかにも胡適や魯迅等を積極的に北京大学に招聘し、北京大学は中国における啓蒙運動である新文化運動の中心となり、1919年に発生した五四運動の中心となりました。
設立の13人
次に1921年に上海で開催された中国共産党第一次全国代表大会に参加した13人を見ていきたいと思います。
①李漢俊(りかんしゅん)
上海の結党集会に自宅を提供した李漢俊は、14歳の時に日本へ留学し東京帝国大学(現東京大学)で学んでいます。日本人でも舌をまくほど日本語が上手く、英語とフランス語も流暢であったと言われています。
東京帝大2年生のときにロシア革命が勃発し、日本で大量の社会主義についての書物を読み漁り、1918年に中国に帰国する際にも多くの書籍を持ち帰ったと言われています。帰国後は兄の李書城が住む上海の家に同居しています。
日本では李人傑という名で知られており、当代一流の社会主義者として紹介されています。1921年春に大阪毎日新聞の社友として中国を訪れた芥川龍之介が、彼の自宅を訪ねてインタビューを行いましたが、ここがまさに共産党結党の場所となりました。
②李達(りたつ)
李達は子供のころから聡明で、1909年には燕京師範学堂、のちの北京大学に入学する予定でしたが、孫文に憧れて日本行きを志します。1913年に公費で日本に留学し、東京第一高等師範学校に入学しました。日本で「救国思想」としてのマルクス主義に出会い、社会主義の研究に懸命に取り組むようになりました。
1920年夏に上海に戻り、陳独秀らと面会し、李漢俊らと上海の共産主義グループを結成し、1921年 7月、党の第1回大会に出席し、中央宣伝部主任に選ばれました。
③周佛海(しゅうぶつかい)
周佛海は日本から参加した唯一の人物として有名です。彼は1917年に日本に渡っており、1921年当時はまだ鹿児島の第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)の学生でした。共産党結党に際しては、旅費100元をもらい、中国への帰省のついでに参加するという気楽なものであったと言われています。ちなみに、フランスでも共産党グループが結成されていましたが、結党大会に呼ばれた海外グループは日本グループのみでした。
④毛沢東(もうたくとう)
共産党設立当時はまだまだ下っ端であった毛沢東は、1918年夏に湖南省第一師範学校を卒業し、1919年に恩師の楊昌済とともに北京へ上京しました。彼は北京大学の学生となるには学歴が足りなかったため、楊昌済の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大釗のもとアルバイトを務めながら『新青年』に熱心に記事を寄稿したと言います。
この時、知識人、特に入学できなかった北京大学などに対する偏見が形成され、後の文化大革命で爆発したのではないか、とも言われます。
その後すぐに帰郷して長沙で教師を務めながら、出版社などを設立し、共産主義の普及に努めました。共産党結党に際しては、毛沢東は長沙の共産主義グループの代表として出席はしていましたが、目立った発言もなく、存在感はほとんどなかったと言われています。
中国で伝説の第1回会議が語られる際、毛沢東が立って片手をあげて演説しているのを全員が聞いている、というシーンとセットに紹介される場合が多いのですが、毛沢東は目立たない参加者で、会議では目立った発言も演説もしていないため、史実を知っている人にとっては苦笑するしかありません。ドラマでも毛沢東が出ると「彼はすごい」「若いのにきっと何かをやり遂げる」などと異常なまで持ち上げられます。
⑤何叔衡(かしゅくこう)
何叔均は毛沢東と同じ長沙の共産主義グループの代表で、湖南全省通俗教育館館長を務めており、参加メンバーの中では最年長の45歳でした。
⓺董必武(とうひつぶ)
董必武は武漢グループのリーダーで、1903年に科挙に合格し、1911年の辛亥革命に参加しています。1914年、日本の法政大学に留学中に、孫文の中華革命党に入党し、卒業後、1919年に上海に渡り、ここで隣人として知り合った李漢俊から社会主義の様々な知識を与えられました。1920年に武漢に戻ると、学校を開いて、英語とマルクス主義教えました。
⑦陳潭秋(ちんたんしゅう)
同じく武漢グループの陳潭秋は上海で董必武と知り合い、武漢で一緒に学校を開校し、共産主義を広める活動を行っています。
⑧張国燾(ちょうこくとう)
張国燾は北京大学の学生で、李大釗の「マルクス学説研究会」に参加して北京共産主義グループ立上げに際して積極的に活動しています。済南グループの立ち上げに際しても協力しています。第1回全国代表大会の招集があった際に、中心人物であった李大釗が多忙により参加できなかったため、劉仁静と一緒に参加しています。
⑨劉仁静(りゅうじんせい)
劉仁静は北京大学の学生で、代表の中では最年少の19歳でした。本の虫とあだ名がつくほどの無類の本好きで、マルクス主義に対する知識の豊富さでは群を抜いており、第1回全国代表大会でも積極的に議論に参加したと言われています。
⑩陳公博(ちんこうはく)
陳公博は、広東に赴任してきた陳独秀と一緒に広東共産グループの設立に尽力したと言われています。第1回全国代表大会の時には、結婚したばかりということもあり、妻を連れて上海に新婚旅行もかねて参加していたと言われています。
⑪包恵僧(ほうけいそう)
包恵僧は、湖北省出身で、北京大学を卒業しています。もともと武漢共産主義グループでしたが、陳独秀を手伝うために広東に居た際に、招集がかかり、多忙な陳独秀にかわって広東から代理として参加したため広東代表となったと言われています。今の中国の定説では、彼がカウントされなかった代表だとされていますが、これも明確な証拠があるわけではなく、異論も残っています。
⑫王尽美(おうじんび)
⑬鄧恩明(とうおんめい)
王尽美と鄧恩明は、北京と上海からの指導により済南共産グループを結成しました。高校を卒業したばかりの学生であり、対等な参加者というよりも参加者から教えを乞う聴講生のようであったと言われています。
以上の13人により中国共産党は産声を上げますが、その後、共産党、そして中国は波乱万丈の運命をたどることになり、設立の13人は翻弄されることになります。
次回は、この13人のその後の数奇な運命を見てみたいと思います。