非常に貴重な19世紀、1800年代後半に撮影された武漢の写真をご紹介します。武漢は古来から交通の要所として栄えたが、特に清朝末期に大きく繁栄をしている。武漢の父と呼ばれる張之洞(ちょう しどう)が武漢の発展に尽力したためである。張之洞は日本ではあまり有名ではないが、李鴻章などとともに清末の四大名臣と呼ばれ、洋務運動を主導し、清朝の近代化に尽力した。1880年代に山西巡撫、両広総督、湖広総督と昇進し、主に武漢を拠点として富国強兵、殖産興業に努めたのである。
1865に撮影された漢陽の写真。イギリスの租界となってから4年ほどの武漢の最初期を撮影した貴重な写真。
1872年にイギリスが漢口に作った製茶工場。当時の武漢では茶の栽培が盛んで、お茶は欧米列強が欲しがったものの上位でもあった。
1874年の撮影。長江流域から黄鹤楼を撮影したもの。様々な建物や船も見える。
同じく1874年撮影。当時の武漢政府が公用で出かけている様子を撮影したもの。一番後ろの籠のようなものに高官が乗っていたようである。
1874年に漢口で撮影された広東商会劇院の様子。こういう建物で劇を演じたものを見たりした。
1874年に撮影された万寿宫商会の山塊の部分の屋根。当時の南方の建物の特徴がよく出ている建物である。
1985年に漢陽の川のほとりでとられた城門の写真。
1985年に撮影された漢陽城の南門。両脇の人がもの珍しそうにカメラを見ている様子が分かる。また、門の奥に写っている風景もなかなか良い。
1880年代に撮影されたといわれる武漢の長江両岸に停泊するたくさんの船。右上のほうに大きな帆船が往来している。
1884年に漢口付近でとられた市民の写真。ちなみに、漢口は1858年の天津条約で開港され、西欧列強の租界が設置されていた。
1887年に撮影された漢口の租界。この年、漢江で洪水が発生し、租界が水没した様子が撮影されている。当時の記録によると、水はいきなり流れてきたようで、船などのほかにも生きたままの人がたくさん流されたようである。
同じく水没した漢口の写真。ベネチアのようになっている。
おなじく水没した租界。租界の道が水であふれて水路になっている。ゴンドラのような船がとまっているので、ますますベネチアのような雰囲気になっている。
1887年に撮影された租界の外国人の集合写真。漢口は、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、日本、ベルギー6か国の租界に分割されており、租界の大きさは天津に次ぐ中国2位であったようである。この写真は後ろにヴィクトリア女王の名前が掲げられているので、イギリスの公館であろう。
1880年代の漢口の租界内の建築。当時の漢口は、お茶の生産量で全国の6割を占める一大産地であり、西欧人はそのお茶を目的にこの地域に進出していたようである。また、それに合わせて海外の銀行などもたくさん進出していたようである。西欧風の建物がたくさん見える。
1880年代に撮影された雪景色の武漢。武漢は夏は蒸し暑いが冬は寒い!
1884年に撮影された川辺で釣りをする人々。辮髪に当時の伝統的な衣装であるが、傘のようなものをもって釣りをしているのが面白い。
黄鹤楼の写真。この写真に写っているものは1884年に火災で燃えてしまい、実に100年ほどの時を経て、1985年に再建されたものが現存している。古くは李白が詩に読んだことでも有名な建築物である。
1894年7月3日、武漢の父と言われる張之洞が漢陽鉄工所を視察している写真。中国の富国強兵のために設立された当時最先端のアジア最大規模の鉄工所であった。
1899年に漢口の小学校で撮影された子供と先生たち。かわいらしい子供が多い!