中国の最も需要な祝日である4月上旬の清明節(Qīng míng jié)についてご紹介。日本ではまったく馴染みが無い祝日であったが、最近では、清明節に日本旅行をする中国人もいるため、日本でも徐々に知られるようになってきた。この祝日は、実は周の時代から約2500年続いている非常に重要な中国4大伝統祭日の一つでもある。日本のお盆同様にお墓参りをするため、英語ではTomb Sweeping festival(お墓掃除の祭日)と呼ばれている。
清明節の由来
清明節の”清明”は、もともとは中国の伝統的な季節の考え方である二十四節気(にじゅうしせっき)の春分の15日後にあたる季節です。この時期は”万物が清々しく明るく美しいころ”という季節であり、生命の誕生と繁栄を象徴する木々の芽生えの時期である。
この時期に新しい生命の誕生を祝うとともに、逆に、死者への思いも新たにするということで、ご先祖様へのお参りをするという風習が始まったと言われている。よって、日本のお盆のようにお墓に行って、祖先に感謝し、お墓を掃除し、家族の健康を祈願したりする。そのため、清明節は「掃墓節」とも呼ばれる。
また、ちょうど春を迎えて郊外に”踏青(tà qīng、ピクニック)”に出かけたくなる時期であるため、踏青節(tà qīng jié)とも言われる。この時期は、お茶の収穫にも良い季節とされて、高級茶は清明前摘みなどというキャッチコピーで売られたりもする。
清明節のスケジュール、日程
旧暦に基づいているため多少前後するものの、だいたい4月4日か5日になる。ずっと先まで計算することはできるものの、とりあえず2030年までの日程をご紹介しておく。ちなみに、2020年は4月4日(土)となっている。例年であれば、この清明節の時期は、中国では通常3連休となる。
2020年 | 4月4日 |
2021年 | 4月4日 |
2022年 | 4月5日 |
2023年 | 4月5日 |
2024年 | 4月4日 |
2025年 | 4月4日 |
2026年 | 4月5日 |
2027年 | 4月5日 |
2028年 | 4月4日 |
2029年 | 4月4日 |
2030年 | 4月5日 |
清明節の歴史
戦国時代の墓葬の出土品『周書』「時訓」の中にすでに清明節に関する記事があり、約2500年ほど前にはすでに清明節の風習があったようである。また、この時期に墓参りをするという風習は庶民だけでなく、皇帝や諸王の間でも行われていた。
ちなみに、この清明節とは別に寒食節というものがある。この2つは日程が近いためよく勘違いされているが、もともとは別のもので、寒食節はちょうど冬至の翌日からかぞえて105日目にあたり、火を使わずに前日までに作っておいた冷たい食事を食べるためこのような名前が付いた祭日である。隋・唐の時代には、多くの寒食節を清明節の二日前に固定し、宋代には三日前と定めていた。
清明節の風習
清明節には皆お墓参りに行くが、ただお墓詣りをするだけではなく、お墓に上に坟頭紙(féntóuzhǐ)と呼ばれる紙切れを置いたり、紙銭(zhǐqián)と呼ばれる冥途のお金を焼いたりする風習がある。また、もともとは別であったが、現在では混同されている、火を使った料理を食べない寒食(Hánshí)も清明節の前日または前々日から三日程度行われる風習として知られている。もっとも、寒食は今の中国ではほとんど行われていない。
<坟頭紙の例>
<紙銭を燃やして天国の先祖に送る>
そのほかにも、地域によっては春巻きや草団子を食べたりもする。
坟頭紙の由来
漢を打ち立てた劉邦が、ライバル項羽との戦いに勝って、やっと故郷に戻り両親の墓参りに行った時のこと。長年の戦乱で墓地は荒れ果て、墓石が倒れるなど、両親の墓を見分けることができなかった。
そこで、劉邦は、天に祈りながら紙を投げると、両親の墓の上に落ちて風でも吹き飛ばされなかった。その話を聞いた庶民が、墓の上に紙をを置いて祖先に墓参りに来た事を伝えるようになった。
寒食節の由来
中国の春秋時代、晋の公子である重耳(ちょうじ、前697年-前628年)は、若い時に後継者争いに巻き込まれ、19年間の国外流浪生活を余儀なくされた。多くの部下は去っていったが、何人かの忠臣はずっと従い続けた。その名の中に介子推(かいすいし)という人がいました。彼は食料がなくなると、重耳が飢えないように、太ももの肉を切って差し出すほどの忠臣であった。
後に重耳は国に戻り、君主に擁立され晋の文公(ぶんこう)となり、春秋五覇の一人となった。覇王とは、当時実権がなくなっていた周王朝の王に代わり、政治を取り仕切った実力者のことである。
文公(重耳)は、落ち着くと家臣たちを労いたくさんの褒美を与えたが、介子推にだけ褒美を与えるのを忘れてた。文公は昔の出来事を思い出し、心より恥じて、褒美を与えるためすぐに介子推のもとへ人を派遣した。
しかし、介子推は、褒美をもらうために文公を助けたのではないとして、老いた母親を背負って山へこもってしまった。その時ある従者が「介子推がこもっている山を焼いて、逃げ道を一つだけ作っておけば、火を避けて介子推が出て来る」と助言したため、文公はこれに従い火を放った。しかし、結局、介子推は出てこず、大きな柳の木の下で老いた母を抱きかかえたまま死んでいた介子推の死体が発見された。
文公は、大いに後悔し、介子推が亡くなった綿山を介山と改名し祠をたてた。ここから、火を放って山を焼いた日を寒食節として火を使わず冷たいものを食べるようになった。介山は山西省介休県に実在する山である。また、寒食節には門に柳の木の枝を飾る風習があったが、これも焼け死んだ介子推を悼んでのものである。
なお、このエピソードは前にブログで紹介した「東周英雄伝」の2巻で紹介されているので是非読んでいただきたい。この漫画は私のお気に入りで、おすすめです。
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