中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、漫画)から、清末に中国の実権を握った西太后の物語をご紹介。西太后は満州貴族 葉赫那拉(エホナラ)氏の出身で、これが中国語のタイトル「那拉(ナラ)氏」となっている。中国三大悪女などと呼ばれ悪名高い人物であるが、詳細を知っている日本人は少ないと思う。言葉遣いも平易で、中身も面白く、絵も素晴らしいので大人でも楽しめる内容になっているので、無料の伝記漫画(マンガ)と思って気楽に読んでみてはいかがでしょう。
なお、過去の王朝や西太后を封建制として過度に悪く書いている感じもするが、連関画が作られたのが共産主義下の中国であり、封建主義により人民が抑圧されていた、と考える政治背景、時代背景があるという事を考慮して読むのが良いであろう。
(1)那拉(ナラ)氏は、清朝道光15年(西暦1835年)に満族官僚の過程で生まれた。鑲黄旗に属する。彼女の姓は葉赫那拉(エホナラ)と言ったので、彼女の事を那拉(ナラ)氏という。まだ若い時に、彼女の父親は安徽の徽寧池太広道の道員(官僚)をしていた。後に、家庭は落ちぶれ、彼女はいつか日の目を見たいと思っていた。
(2)咸豊元年(1851年)、清朝は慣例にのっとり、満州族の官僚の家庭から秀女を選んだが、17歳の那拉(ナラ)氏が選ばれて宮殿に入った。彼女はおべっかを使ったり、人にうまく取り入ることが出来たのと、南方の小曲を歌うことが出来たと言われており、すぐに咸豊帝の歓心をかった。宮殿に入ると5年後には男の子を生み、これは咸豊帝のただ一人の子供であった。
(3)封建社会では、男の子が重要で、那拉(ナラ)氏はすぐに貴妃に昇任した。彼女が権力の階段を上っていた頃、中国人民は帝国主義と封建主義の二つの重圧でまさに深い災難を受けていた時代であった。中国は徐々に半植民地、半封建社会になろうとしていた。
(4)この時期、広西の金田で、洪秀全を首領とする太平天国の革命が爆発した。北方の捻軍も、河南の永城で決起した。農民革命の烈火がものすごい勢いで中国の半分を覆った。清朝は何度も軍隊を派遣して鎮圧しようとしたが、すべて失敗した。
(5)国を守るのが難しくなり、咸豊帝は熱した鍋の上の蟻のようになっていた。貴妃となっていた那拉(ナラ)氏は、咸豊帝の天下を守るため、皇帝に様々な計略を提案し、革命人民を鎮圧した。この時、彼女は宮廷の中で徐々に権力をもてあそぶようになりだした。
(6)咸豊6年(1856年)、イギリスとフランス両国は中国に対して第二次アヘン戦争を引き起こした。アメリカやロマノフ朝ロシアの扇動と指示のもと、イギリス・フランス連合軍は咸豊8年に我が国の大沽口と天津を侵犯した。咸豊10年7月、両軍は天津を占領し、8月には北京に進駐した。
(7)情報が伝わると、咸豊帝は驚き、弟の恭親王奕訢(きょうしんのう えききん)を北京にとどめ、急いでイギリスとフランスの侵略者と談判させ、国を売って講和した。彼自身は皇后の鈕祜禄(ニオフル)氏と貴妃の那拉(ナラ)氏、息子の載淳(さいじゅん)を連れて、慌てふためいて熱河に逃げていた。
(8)翌年の7月、咸豊帝は熱河で重病となり、死の前に王侯、大臣たちを集めて、6歳の息子である載淳(さいじゅん)に皇位を継承させた。また、怡親王載垣(いしんのう さいえん)、鄭親王端華(ていしんのう たんか)、協辦大学士(清時代の官名の一つ)粛順などの8人を「皇帝の補佐を行う大臣」に任命し、幼い皇帝の権力を盤石なものとした。
(9)伝説では、咸豊帝が大臣たちに遺言を残した時、他の後妃たちは泣いていただけだが、野心を持った那拉(ナラ)氏だけは盗み聞きをしていたという。彼女は咸豊帝が臨終する際に、自らを権力の外に置いたと知ると、とても不満であったという。
(10)7月17日、咸豊帝は病死した。8人の大臣は、政治を補佐する期間や、幼い皇帝の名義で命令を発する時は彼らが起稿し皇后は判を押すだけで変更することはできない、などを相談して決めた。各官僚が皇帝に報告する時は、彼らが処理し、皇太后に報告する必要は無かった。そのため、那拉(ナラ)氏は非常に怒った。
(11)この時、那拉(ナラ)氏は自分が皇帝の実の母であるという立場を利用して、権力を獲得する方法を日夜考えていた。彼女は皇太后の”垂簾聴政(すいれんちょうせい)”を利用して、大権を奪い取ろうと考えた。垂簾聴政とは、皇帝が幼いのを利用して、皇太后が政治に参加して、執政するという意味である。しかし、清朝の祖先が決めた慣例により、皇太后は政治に干渉することはできなかった。
(12)彼女は咸豊帝の皇后の鈕祜禄(ニオフル)を訪ねて相談した。咸豊帝の死後、鈕祜禄(ニオフル)は”母后皇太后”と呼ばれており、那拉(ナラ)氏は”皇母皇太后”と呼ばれていた。しかし、鈕祜禄(ニオフル)は正式な皇后であり、彼女の地位と名望は那拉(ナラ)氏より高く、彼女の同意と支持がなくては、那拉(ナラ)氏が行いたい垂簾聴政もできなかった。
(13)那拉(ナラ)氏はうそをついて「八大臣は野心があり、彼たちが権力を握ったら、我々が生き残る道は亡くなる。必ず垂簾聴政を実現しなければ」と言った。鈕祜禄(ニオフル)は愚昧無知で、この話をすべて信用してしまった。誰かに聞かれるのを避けるため、彼女たちは庭で魚を見るのを装って、ひそかに計画を立てた。
(14)二人の皇太后は、ただの若い未亡人で、手中には何も実権は無かった。那拉(ナラ)氏は清朝の統治集団内の派閥の矛盾を利用して、実力ある人物の支持を取り付けようとした。彼女は腹心の宦官、安徳海を派遣して、こっそり北京に戻り、8人の大臣に反対していた恭親王奕訢(きょうしんのう えききん)と結託した。
(15)奕訢(えききん)は咸豊帝の6番目の弟で、売国的な外交をおこなったため、”六鬼子(外国の力を笠に着て、国内で自分の勢力を広げようとする売国奴的政治家)”と呼ばれている。イギリス、フランスの侵略者はみな彼を支持した。彼は那拉(ナラ)氏の密連絡を受け取ると、朝廷の大権を奪い取る良い機会が来たと思い、咸豊帝に詣ることを名目に、8月頭に熱河にやってきた。
(16)本来であれば、”六鬼子”は咸豊帝から幼い皇帝を補佐するように命じられておらず、これが不満であったが、この時霊堂にやってくると、大げさに地に伏して泣きじゃくる演技をした。傍に居た人たちはこの様子を見て、皆涙を流した。
(17)”六鬼子”は無き止むと、二人の皇太后に謁見し、政変の計画を相談した。那拉(ナラ)氏は外国の侵略者が彼女が表舞台に出るのを同意しない事を心配したが、”六鬼子”はすぐに「外国に異議はないでしょう。もしもあっても私が処理します」と保証した。この二人の野心家はここに結託した。
(18)7日後、”六鬼子”は北京戻り、急いで仲間を集めて、計画を練った。最初に反旗を翻したのは、兵部の侍郎(官名、次官級)である勝保であった。彼は農民革命を鎮圧した人物であった。彼はわざと慣例を破って、幼い皇帝と八大臣を飛び越して、直接、皇太后に奏上し、政治を試した。
(19)その後すぐに、御史(朝廷内部の観察機関)の董元醇が皇帝はまだ幼いことを理由に、両皇太后の垂簾聴政と、”六鬼子”の補佐を要求した。その後、蒙古旗兵の総統である僧格林沁(センゲリンチン)も八大臣に手紙を書き、公に董元醇と勝保を支持した。
(20)大学士の賈禎、周祖培は歴史上、皇太后が政治に参加した事例を調べ『臨朝備考録』を編纂し、那拉(ナラ)氏が表舞台に出るための理論的な根拠を提供した。わずかの間に、北京には両皇太后の垂簾聴政を要求する大きなうねりが出現した。那拉(ナラ)氏が幕の裏からこの劇を操れば操るほど、劇は熱を帯びた。
(21)董元醇などの人が熱河に上奏文を送ると、八大臣の強烈な反対にあった。彼らは一緒に上奏文を起稿し「我が王朝はずっと皇太后の垂簾聴政を許してこなかった」と訴えた。
(22)咸豊帝が残した二つの大印はともに皇太后の手中にあった。八大臣が董元醇に反対する上奏文を書くと、皇太后に押印を依頼した。那拉(ナラ)氏は怒りで震えた。彼女は押印を拒否し、八大臣と喧嘩になった。幼い皇帝は驚いて泣き出し、お漏らししてしまった。
(23)双方ともに行き詰って次の日になると、粛順らは公務を停止すると言って脅迫した。那拉(ナラ)氏は譲歩を迫られ、上奏文に押印せざるを得なかった。この上奏文は、董元醇に打撃を与え、那拉(ナラ)氏に心痛を与えた。粛順らは那拉(ナラ)氏が彼らに敵わなかったとして、こっそりと笑った。
(24)しかし、この事件が那拉(ナラ)氏に政変の決心を確かなものにさせた。彼女は”六鬼子”を通して、少しづつ北京の周囲に駐在している清軍の将軍たちを買収した。兵部の侍郎、勝保は軍隊を密云一帯に展開し「清が傾こうとしている」と言いふらした。続いて、自ら熱河に進駐し、八大臣に圧力をかけた。
(25)北京周辺の兵権はすでに那拉(ナラ)氏の手中に堕ちていた。一切の手はずを整えると、彼女は八大臣に早く北京に戻るように催促した。封建時代の礼制にのっとり、皇帝の棺は必ず北京に戻って葬式を行う必要があり、皇帝の即位の儀礼も同様であった。八大臣は北京にもどっては不利だと知っており、わざと後ろ倒しにしていた。
<つづきはこちら>
漫画でわかる中国語連環画『那拉氏NALA SHI』02 日本語翻訳(那拉氏 西太后)
中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、漫画)から、清末に中国の実権を握った西太后の物語をご紹介。西太后は満州貴族 葉赫那拉(エホナラ)氏の出身で、これが中国語のタイトル「那拉(ナラ) ...
続きを見る
<関連記事>
西太后の呪い?清建国と滅亡をつなぐミステリー
西太后と言えば、権力を思いのままに操った悪女で、清の滅亡を決定づけたとしてマイナスのイメージが強いと思う。一方で、西欧列強の帝国主義のなかで、西太后という強い権力がなんとか清という国を持続させていたと ...
続きを見る
【写真】西太后の少女時代と最後の写真、遺体はその後どうなった?!
中国ではわりとポピュラーであるが、日本ではあまり西太后の写真に馴染みがないので、今回はちょっと変わった写真を中心にご紹介していきたい。特に若い時の様子を再現したAIの写真や、その葬儀の写真はなかなか見 ...
続きを見る