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古代で最も危険な職業「皇帝」中国皇帝長寿トップ5(中国歴代83王朝611皇帝中)

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皆さん皇帝と言えばどんなイメージを持つだろうか?皇帝と言えば権力と栄華を極め、命令一つで気に入らないものは誰でも殺してしまうことができる、と言う風に思うかもしれない。しかし実際にはとても不自由な立場で、中国の歴史上最も危険な職業と言われることもある。今回はその背景をご紹介したい。

 

中国歴代皇帝概論~平均寿命はたったの39歳

 

中国人民日報によると、中国のとある学者が行った統計で、主な王朝は辺境の小国も含め83王朝あり、これまで中国には皇帝(帝王)が611人いたそうである。ちなみに、日本の現在の今上天皇は126代目なので、中国の数が非常に多いのが分かる。この差は実は歴史の長さの問題だけではない。

 

 

皇帝のうち、疾病や老衰といった正常な死に方で死んだものは339人で、誕生と逝去の年がはっきりしているものは209人平均寿命はわずか39歳しかない。

 

これには皇帝の仕事の大変さが関係している。皇帝に多くの権力や決定権がすべて集約されていたため、各担当の大臣から意見を聞きつつも、すべての政策の最終決定は自分でやらなければいけない。そのため、緒事情に精通しなければならず、非常に時間と精神力を消耗した。また、天災や戦争が起こると、徹夜になることも多かったようである。

 

あわせて昔の医療条件が重なり、皇帝の短命を引き起こしていたようである。

 

44%が異常な死に方~清の光緒帝毒殺

 

では611人の皇帝のうち、自殺や他殺など正常ではない死に方をしたものはどれくらいか?その数はなんと272人にのぼり、44%が異常な状況での死亡となっている。日本と比べて中国の皇帝の数が多いのはこのような理由も影響しているのである。

 

日本と比べて乱世の世が激しい中国では、皇位継承を巡るトラブルが絶えず、皇帝が暗殺されたり、不審死をすることが多々あった。皇帝の自殺のほとんどは他殺であると考えられている。また、宋の徽宗・欽宗が金王朝に捕まったように、異民族との争いで皇帝が捕虜となることもあった。

 

このように、半分に近い皇帝が異常な死に方をしていると考えると、冒頭に述べたように、中国で最も危険な職業、と呼ばれるのも納得できる。

 

 

例えば、中国最後の皇帝、ラストエンペラーと言えば溥儀が有名であるが、その前の皇帝の光緒帝は西太后に毒殺されたと言われている。西太后の傀儡を脱却し、戊戌の変法で中国の近代化を行うとした光緒帝の企みを西太后が潰し、恨まれていたため、西太后が自らの死期を悟ると、ヒ素で毒殺させたというのである。

 

その証拠に、光緒帝の死の翌日に西太后は亡くなっている。毒殺説はずっと囁かれていたが、のちに光緒帝の墓から採取した頭髪のDNA鑑定でヒ素が検出されて、毒殺説が確定された。

 

ちなみに、毒殺説には、戊戌の変法の際に西太后に密告してこれを潰した袁世凱説や、西太后の手先となって光緒帝を迫害した宦官の李蓮英説もある。

 

不死を求めて中毒で死んだ初めての皇帝

 

また最初に皇帝の称号を使った秦の始皇帝は、天下を統一すると不老不死の仙薬を求めた始皇帝は仙薬の一種として水銀を飲んでいたと言われている。古来、神仙術では、水銀は長寿や美容に効果があるとされていたのである。

 

実際に始皇帝陵の壁面からは水銀が検出されている。始皇帝陵が建築された時には、棺の近くに水銀の川が作られたと言われている。

 

 

水銀は内臓や脳に障害を与え、長期間飲み続けると死に至る事が現在では分かっており、始皇帝は水銀中毒で死亡したと言われている。水俣病を引き起こしたメチル水銀は、水銀よりも強い毒性を持っているが、有機水銀の一種である。

 

中国の長寿皇帝TOP5

 

さて、ここまで見ると皇帝という職業の大変さがお分かりいただけたと思う。その中で逆に長寿の皇帝をご紹介したい。

 

1、清の高宗 乾隆帝 89歳
2、梁の武帝 蕭衍 86歳
3、唐の則天武后(武則天) 82歳
4、宋の高宗 趙构 81歳
5、元の世祖 フビライ 80歳

 

長寿TOP5を見てみると、611人もいる皇帝の中でも、割と有名な乾隆帝や則天武后、フビライが入っている。

 

2位の梁の武帝は南北朝時代の南朝梁の初代皇帝であるが、最後は侯景の乱という非常に有名な反乱に敗れて捕らえられて亡くなっている。また4位の宋の高宗は文人皇帝として有名な徽宗・欽宗の徽宗の弟にあたり、靖康の変により滅びた北宋を引き継ぎ南宋として安定させた皇帝。

 

ちなみに、こうなると気になるのが70歳以上の皇帝であるが、こちらも数が非常にすくなく、漢の武帝 劉徹、三国時代の呉の孫権、唐の高祖 李渊、唐の玄宗 李隆基、遼の道宗 耶律洪基、明の太祖 朱元璋のわずか6人しかいない。

 

高齢の皇帝がいかに希少かが分かる。

 

最も長生きした乾隆帝の物語~統治を60年で止めた理由とは?

 

乾隆帝が生きたのは1711~1799年で89歳、統治期間はなんと60年にもおよんだ。日本では江戸時代の中~後期にあたり、暴れん坊将軍徳川吉宗が1684~1751年なのでほぼ同時期となる

 

 

雍正帝(ようせいてい)の四男で、康熙帝の孫にあたる。三代続けて有名な皇帝で、康熙帝は61年、雍正帝は13年、乾隆帝は60年と、清王朝267年のうち134年と約半分の時期を統治し、乾隆帝時代に清は最盛期を迎えた。特に領土では、西モンゴルのジュンガル部をはじめ、現在の台湾、ミャンマー、ネパール、ベトナムなどに進出し、中国史上空前の大領土を獲得した。

 

ちなみに、自ら「十全武功」と称したが、これは10回の遠征ですべて勝利した、武功をあげたという意味である。しかし、祖父の康熙帝が自ら出陣したのとは違い、乾隆帝自身は自らは戦っていない。また、乾隆帝は子供の時にすり替えられた漢人であったという噂も当時の清王朝ではあったようである。

 

中国屈指の名君と言われる祖父の康熙帝や雍正帝は遅くまで仕事をしたことで有名であるが、乾隆帝も非常に勤勉であったようである。また、統治60年で上皇となったのも、祖父である康熙帝の61年を超えないように、という配慮だったようで、人間としても出来ているようである。もっとも、引退後も上皇として権力は握っていたようであるが・・・。

 

なお、末期には認知症を患っていたのではないかと言われており、奸臣の跋扈を許すなど評判を若干落としている。

 

中国皇帝の養生レシピ

 

さて、最後に長生きした皇帝たちが愛した養生レシピを一つ紹介したい。

 

周王朝の制度習慣を紹介した「周礼(しゅらい)」によると、医師の中の最高位は「食医」、すなわち、王の食事の調理・管理を任されていた医師であったという。外科医や内科医よりも上の立場であったようで、まさに漢方の思想の医食同源である。

 

食べることはすなわち医療で、予防医学が重視されていたのであった。

 

 

宮殿には食事をつかさどる部門があり、毒殺を恐れたという事もあり、大変厳重に管理されていたようである。現在の故宮でもこの名残を見ることができる。

 

 

熱冬果(rè dōng guǒ)

唐の太宗李世民が風邪をひいたとき、侍医が献上したレシピ。大変効果があり、その後、明の宮廷で愛されるようになったという。

「熱冬果」とは、温めた梨(なし)のことで、蘭州の梨は極めて品質が良く「冬果」と呼ばれた。

明時代の薬学書「本草綱目」では、梨は熱を下げ、肺を潤し、熱を取り、解毒の効果などもあるとされている。

作り方は簡単で、切り刻んだ梨を、花椒や生姜、氷砂糖と一緒に約20分ほど熱するだけ。好みによりナツメを入れたりもする。

現代中国でも結構見かける食べ物である。

 

 



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