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漫画でわかる中国語連環画『那拉氏NALA SHI』04 日本語翻訳(那拉氏 西太后)

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中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、漫画)から、清末に中国の実権を握った西太后の物語をご紹介。西太后は満州貴族 葉赫那拉(エホナラ)氏の出身で、これが中国語のタイトル「那拉(ナラ)氏」となっている。中国三大悪女などと呼ばれ悪名高い人物であるが、詳細を知っている日本人は少ないと思う。言葉遣いも平易で、中身も面白く、絵も素晴らしいので大人でも楽しめる内容になっているので、無料の伝記漫画(マンガ)と思って気楽に読んでみてはいかがでしょう。

なお、過去の王朝や西太后を封建制として過度に悪く書いている感じもするが、連関画が作られたのが共産主義下の中国であり、封建主義により人民が抑圧されていた、と考える政治背景、時代背景があるという事を考慮して読むのが良いであろう。

 

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漫画でわかる中国語連環画『那拉氏NALA SHI』03 日本語翻訳(那拉氏 西太后)

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(76)光緒帝は傀儡となることを望まず、変法を利用して実権を奪取しようとした。光緒二十四年(1898年)4月23日、変法を進めることを命令した。彼の腹心の大臣である翁同龢(おう どうわ)の推薦で、光緒帝は康有為(こう ゆうい)と謁見し、変法の段取りを相談して決めて、数十の改革令を発出し、譚嗣同(たん しどう)らに新政を推進させた。

(77)那拉(ナラ)氏を代表する清王朝の守旧派は、変法維新に対して拒否反応を示し、様々な手段でこれを潰そうとした。那拉(ナラ)氏は光緒帝に翁同龢(おう どうわ)の官職の罷免を強要し、彼を北京から追い出して、光緒帝の力を削った。

(78)彼女はまた腹心の栄禄(えいろく)を直隷(現在の河北省)総督に任命し、北洋軍隊を統帥させ、北京を支配下に置かせた。彼らは9月の初めに、那拉(ナラ)氏が光緒帝を連れて天津で閲兵をする際に、軍事クーデターを起こし、光緒帝の退位を迫り、変法改革運動を潰そうとした。

(79 )しかし、思いがけず、那拉(ナラ)氏の秘密が漏洩し、康有為(こう ゆうい)は譚嗣同(たん しどう)と緊急で相談し、栄禄(えいろく)の部下の袁世凱が新法に賛成していたので、彼を仲間に引き入れて栄禄(えいろく)に対抗しようとした。彼らが光緒帝に相談すると、光緒帝はすぐに袁世凱を北京に呼び、彼に官爵を与えて、新政を守るように要求した。

(80)譚嗣同(たん しどう)は深夜に袁世凱を訪ね、閲兵式の際に、栄禄(えいろく)を殺害し、光緖帝を救うように要求した。狡猾な袁世凱は同意したふりをして、憤慨して激昂した様子で「栄禄(えいろく)を殺すなんて、犬を殺すのと同じようなもんだ」と言った。

(81)袁世凱は北京に数日居ただけで、急いで天津に帰り、那拉(ナラ)氏の懐刀である栄禄(えいろく)に密告した。

(83)栄禄(えいろく)は情報を得ると、すぐに北京に赴いて、那拉(ナラ)氏に報告した。恐ろしい那拉(ナラ)氏は先手を打つことを決心した。その日(8月5日)の深夜、彼女は人を連れて頤和園から宮殿に戻り、光緒帝を監禁した。

(83)次の日、那拉(ナラ)氏は光緒帝の名義を使って、皇帝が彼女に政治を見るように懇願したとした。このようにして、那拉(ナラ)氏は政変により、三回目の政権を獲得した。改革が不十分だった変法運動は、わずか100日で鎮圧されてしまった。この一年は陰暦の干支の”戊戌(ぼじゅつ)”にあたり、後に「戊戌(ぼじゅつ)の政変」と呼ばれるようになった。

(84)戊戌(ぼじゅつ)の政変後、康有為(こう ゆうい)、梁啓超(りょう けいちょう)らは逃げ出した。譚嗣同(たん しどう)ら6人は逮捕され、憤慨の中、大義のために死んだ。那拉(ナラ)氏はさらに光緒帝を排除したいと考えたが、イギリスやフランスなどの帝国主義諸国が光緒帝が害されると混乱を招き、彼らの中国における利益に影響が出るのを心配し、表にでて干渉したため、那拉(ナラ)氏も手を下すことができなかった。

(85)資産階級による改革運動が失敗した後、農民を主体とした義和団の反帝国主義愛国運動が起こった。清王朝はなんどもこれを鎮圧しようとしたが、無駄に終わった。義和団運動は烈火のごとく、山東、河北の農村から天津、北京一帯に広がった。

(86)イギリス、ドイツ、ロシア、日本、アメリカ、フランス、イタリア、オーストリア等の帝国主義国家は清王朝が腐敗して無能なのを見ると、数万人の八国連合軍を組織し、堂々と武力介入した。義和団は勇敢に奮闘し、侵略者に打撃を与え、すぐに天津と北京城を制圧下に置いた。

(87)老猾な那拉(ナラ)氏は、武力では義和団を鎮圧できないと思い、豹変した。義和団を「拳匪」と呼んでいたのを「義民」に変更した。彼女は義和団を騙して利用しようとした。しかし、義和団が前面で勇敢に侵略者と戦っている時、清軍は背後で義和団の退路を断とうとしていた。

(88)ある日、栄禄(えいろく)が那拉(ナラ)氏に、西欧は彼女に皇帝に実権を返すように要求していると報告すると、彼女は非常に驚いた。彼女は事実かどうかも確かめず、各国に宣戦した。しかし、義和団が外国の大使館を取り囲んだ際には、彼女はスイカ、野菜、酒や米などを送り、大使館員を慰問して、西欧のご機嫌を取ろうとした。

(89)八国連合軍隊は天津を陥落させ、那拉(ナラ)氏は針のむしろで、正式に栄禄(えいろく)を大使館に派遣して講和を求めた。また売国奴の李鴻章を北京に迅速に呼び戻して、彼を講和全権大使に任命し、連合軍に停戦を要求した。

(90)光緖ニ十六年(1990年)7月20日、八国連合軍は北京を陥落させた。強盗達は野蛮さを現し、北京人民を報復的に大虐殺した。街中や宮廷内外で、外国の強盗が略奪を行い、北京は空前の災禍を受けた。

(91)那拉(ナラ)氏は驚いて気が気ではなく、農民に変装して、光緒帝を引き連れて、慌てて太原に逃げた。沿道で民衆から略奪し、盗賊よりも酷かった。

(92)那拉(ナラ)氏は逃げる途中に、また言う事を覆し、義和団が侵略者たちの行動を招いたとして、義和団を殲滅させ、西欧のご主人様の歓心を取り戻そうとした。

(93)那拉(ナラ)氏は最終的に西安まで逃げた。彼女は西欧のご主人様が自分を排除しようとするのを恐れて、李鴻章に命じて、交渉の中で西欧のご主人様に彼女の地位を守るように要求し、中国の物資と引き換えに、歓心をかおうとした。結局、翌年(1901年)に清政府は11か国の強盗と屈辱的な辛丑(しんちゅう)条約(北京議定書)を結んだ。

(94)人民が大きな被害を受ける中、那拉(ナラ)氏は相変わらず絢爛豪華な生活をつづけた。西安でも、彼女の毎回の食事には、100余りのおかずが並んだが、「これまで北京に居た時には、何倍もの費用を使っていたので、今はとても節約している」と言った。これは、彼女が吸血鬼であることを充分に説明していた。

(95)売国的な条約を結ぶと、那拉(ナラ)氏は西安から北京に戻ったが、荷物だけで3千両あまりの車であった。数千里の道のりを、貴重な黄土で舗装し、一千万の人に移動するときに音を出さないように要求した。道の両脇には色とりどりの電灯を配置し、祭壇を設け、所々に休憩の仮の御所を設けて、飲み水も白い布で濾過しなければいけなかった。

(96)保定につくと列車に乗り換えた。車内には西欧式の鉄のベッドや時計、鏡、サンゴの木などを配置し、モダンなものとなっていた。この行程だけでも、那拉(ナラ)氏は十数省の無数の費用を徴収した。

(97)那拉(ナラ)氏が皇宮に戻って一番最初にやったのは、逃亡前に埋めて隠した金銀財宝の発掘であった。発掘して、一つも欠けていないと、宦官たちは頭を下げてお祝いした。彼女の指導の元に結んだ辛丑(しんちゅう)条約(北京議定書)は、賠償だけをとっても4億5千万両の白銀で、全国民一人当たり銀一両と同等であった。利息まで計算すると、9億8千万両にもなった。

(98)那拉(ナラ)氏は売国に”功績”があったので、帝国主義の強盗達は次々に彼女に勲章や西欧の物品を送った。那拉(ナラ)氏は、寵愛を受けて驚き喜び、たびたび帝国主義者たちと会い、媚びへつらいながら西欧のご主人様に感謝した。

(99)彼女は「永遠に美名を残し」「海外で名声を高めるため」に、わざわざアメリカの女性画家カールを招聘し、自らの肖像画を描かせて、自らの功績を伝えようとした。この中国人民を敵視する帝国主義者に対して、那拉(ナラ)氏は至れり尽くせりで、自ら彼女のために中国風と西洋風を掛け合わせた服を設計し贈った。

(100)カールが宮殿にやってきて7,8か月たつと、那拉(ナラ)氏のために4枚の絵を描いた。4つ目の絵には、那拉(ナラ)氏が自ら枠を設計し、アメリカのセントルイス博物館に送って陳列させ、その後、当時のアメリカ大統領に贈り、欧米のご主人様の歓心を買おうとした。

(101)帝政ロシアに対して、那拉(ナラ)氏はさらに頼るようになった。光緒二十二年(1896年)、彼女は李鴻章をロシアに派遣して、皇帝ニコライ2世の戴冠式典に参加させた。そこで、売国奴李鴻章は皇帝に買収され、定例ロシア政府と「中国ロシア密約」を結び、中国の主権と利益を売り渡した。

(102)光緖ニ十九年末(1904年2月)、日本の強盗が、我が国の東北で、勢力範囲を新たに書き直すため、日露戦争を起こした。日露両国が我が国の領土を占領し、我々の同胞を殺害したが、那拉(ナラ)氏は全く顧みなかった。彼女は両国の不興を買うのを恐れて、中立を宣言した。

(103)那拉(ナラ)氏を頭とする清王朝は賊たちの手下となり、祖国を売るという犯罪行為を冒し、中国人民達も我慢の限界であった。義和団に引き継いて、孫中山(=孫文)を首領とする資産階級民主革命運動がまさに醸成されつつあった。農民、労働者、学生、市民らは次々と立ち上がり、反対闘争を実行した。

(104)この時、那拉(ナラ)氏の寿命ももう長くはなかったが、死に際して、もう一つ手を打った。彼女は、いわゆる立憲君主制で皆を騙して国内情勢を緩和しつつ、孫中山を指名手配して、残忍な手段で革命党の人を鎮圧した。

(105 )光緖三十四年(1908年)、那拉氏、この清末最大の野心家、陰謀家、権力欲狂、売国奴、死刑執行人、吸血鬼は73歳まで生き、新しい革命の暴風がまさに来ようとしている時に、その罪深い一生を終えた。

(106)那拉(ナラ)氏が亡くなってから3年後、1911年(宣統3年)、孫中山が指導する資産階級民主革命、辛亥革命が清王朝を覆し、中国の2000年余り続いた封建君主専制政治は終わりを告げた。

 

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