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新解釈・三國志もびっくり!桃園では誓ってない?【真実の三国志】

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日本で広く普及している三国志(例えば横山光輝の漫画三国志)は、中国では「三国演義」と呼ばれる1000年以上を経た明の時代に作られた創作物語をベースとしている。その特徴は「7割事実、3割創作」という所にある。歴史書としての三国志は、三国時代から100年以内の晋時代に陳寿により書かれた「正史三国志」である。この二つを比べてみると、三国演義の創作部分が分かるのであるが、その内容は結構衝撃的である(笑) 今回は真実の三国志に関連したちょっと友達にも語れる三国志の史実トリビアをご紹介したい。

 

最初に~新解釈・三國志の三顧の礼のシーンから

2020年12月公開の新解釈・三國志では三顧の礼を受けた孔明が喜んで引き受けるシーンがある。しかし、これは新解釈なのだろうか?もしかしたらこれが史実なのかもしれない、という話がある。

というのも、「魏略」という本には最初に孔明が劉備を訪ねていった、という記述がある。その後に、劉備が孔明を訪ねたのかもしれないが、史実は我々が一般的に知ってる三顧の礼とはちょっと違うようである。以下、有名なエピソードと合わせて、史実を見ていきたい。

 

桃園の誓い

三国志の序盤で最も有名なエピソードであるが、実はこれは作り話と言われている。実際には歴史書にはこのような記載はまったくない。

 

しかし、実際の劉備、関羽、張飛は君主と臣下であるが、親子のように心を通わせ、一緒の部屋で寝ることも多かった、と言われるくらい関係が良かったのは事実である。

 

三義兄弟の年齢

 

これは驚きの事実で、桃園の誓いを見た人は劉備が一番年長だと思い込んでいるかもしないが、実際には関羽の方が劉備より1歳年上であった可能性がある(諸説有り)。

 

張飛が一番若かったのは間違いないようである。

 

関羽が華雄を斬って帰ると酒はまだ温かかった

 

横山光輝三国志ではちょっと話が変わっているのであるが、もともとの三国演義では、華雄を斬るために関羽が出陣しようとした時のエピソードである。

 

景気付けのため温めた酒を関羽に与えようとしたところ「華雄を斬ってから頂こう」と言って飲まずに置いて出陣し、華雄を斬って帰ってたら酒がまだ温かかったという非常に有名なエピソード。

 

しかし、実際には、華雄を斬ったのは江東の猛虎と呼ばれた孫堅である!ここら辺が、三国志演義の7割史実、3割創作と言われるゆえんである。

 

孔明、草の船で弓を集める

赤壁の戦いでのあまりにも有名なエピソード。周瑜から10日以内に10万本の矢を作れ、と無理難題を押し付けられた孔明がとった策略。

 

孔明の知略を示すエピソードとしてよく語られるのであるが、実際に赤壁の戦いで曹操軍に弓を打たせたのは孫権であった。史実にはこのようなエピソードの記載はない。

 

青龍偃月刀

 

三国演義の中で関羽が使っている武器と言えば青龍偃月刀である。しかし、実際には青龍偃月刀が使われるようになったのは唐時代である。三国時代にもっとも使用された武器は”環首刀”であり、関羽も十中八九はこれを使っていたと言われている。

 

 

蜀?

 

 

三国志と言えば魏、呉、蜀であり、劉備が作った国は蜀というのは子供で知っている。

 

しかし実際には、劉備は漢の正統を引き継いでおり、人々は劉備の事を大漢皇叔と呼んでおり、死後の名前も”漢昭烈帝”である。そのため蜀は漢と呼ばれていた。

 

後代の学者が”漢”と”劉備の漢”を区別するために蜀漢と区別したのであるが、実際には当時の人々はみな蜀のことを”漢”と呼んでいた。

 

呂布と戦う劉備、関羽、張飛の三英雄

 

 

三国志序盤の董卓討伐連合軍の見せ場の一つが、虎牢関で猛威を振るう呂布に対して、劉備・関羽・張飛の3人が一緒に戦い、これを撤退させるシーンである。

 

しかし、実際には呂布を撃退したのは孫堅である。華雄の件といい、孫堅はまさに猛虎の戦いっぷり!

 

ちなみに、史実では董卓連合軍に公孫瓚は参加しておらず、公孫瓚のもとに身を寄せていた劉備も虎牢関の戦いには参戦していない

 

名医華陀、関羽の骨を削って治療する

 

 

このエピソードも大変有名で、江戸時代の武者絵の第一人者と言われた歌川国芳も浮世絵にこれを書いているくらいである。

 

関羽が手に毒の矢を受けて骨まで到達し、骨を削らなければいけなくなった。関羽は麻酔など何もない時代に、碁をやりながらこの出術を受けて平然としていた、というのである。関羽の豪胆さを物語るエピソードである。

 

しかし、実際には華陀は208年に亡くなっており、関羽が曹仁との闘いで矢を受けたのは219年の事である。しかも、その矢が当たった場所も手ではなく、額と言われている。

 

関羽、魯粛を圧倒する

 

赤壁の戦いの後、荊州の帰属をめぐって、劉備と孫権が揉めた際に、関羽が刀一つを持って魯粛の陣に乗り込み決着をつけたという事で、関羽の豪胆さや人情味を表すエピソードの一つ。

 

荊州の帰属を巡って劉備と孫権が揉めたのは事実であり、魯粛と関羽が刀を持ったまま会見したのも事実であるが、実際には魯粛が関羽を圧倒し領土の帰属問題を決着させている。

 

五虎大将軍

 

蜀の五虎大将軍と言えば、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠。しかし、実際には四虎大将軍であり、その中に何故か趙雲は無かった

 

史実では、関羽、張飛、馬超、黄忠の4人が、それぞれ前将軍、右将軍、左将軍、後将軍に任命されているが、何故か趙雲は将軍に任命されていなかった。趙雲は中国でも日本でも人気が特に高いためちょっとがっかりである。

 

4という数字がなんとなくおさまりが悪いのと、あの趙雲が入ってないのを不満と思った後代の人たちが5人にしてしまったようである。

 

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