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漫画で分かる孔子の一生3(中国語連環画日本語翻訳)

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中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、中国式の漫画)から「孔子の罪深い一生」(原題:孔老二罪恶的一生)をご紹介。孔子と言えば中国では文聖とも崇められ、個人としてはおそらく最も尊敬されている最高の人格であるが、文革時代には、封建主義の象徴として、林彪と一緒に批判の対象となった。この時に書かれたのが今回の連環画で、孔子が非常に批判的に描かれており、貴重な資料となっている。ただ、孔子の一生を勉強するという意味では有益である。

※孔子の子は先生を現す尊称であるが、文革期には本名の孔丘と呼びすてされ、さらには孔老二(孔家の次男坊)と蔑称された

 

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漫画で分かる孔子の一生2(中国語連環画日本語翻訳)

中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、中国式の漫画)から「孔子の罪深い一生」(原題:孔老二罪恶的一生)をご紹介。孔子と言えば中国では文聖とも崇められ、個人としてはおそらく最も尊敬され ...

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(41)新興地主階級の勢力は徐々に弱まっていき、孔子(孔丘)は続いて核新派の少正卯を逮捕して、5つの罪状を捏造した。1)過去から現在への変化に精通しており危険分子である、2)正道を歩まず、革新を実行しようとしている、3)きれいな言葉で革新道理を宣伝している、4)奴隷制を貶めている、5)奴隷制に反対する理由を宣伝している、である。

(42)孔子(孔老二)は横暴にも、少正卯のすべての罪状がひとつひとつ殺害に値すると認識していた。彼は凶暴さをむき出しにして、民衆を集めて徒党を組んで、邪説を喧伝し、正しい事と間違っていることを混乱させている、という罪で少正卯を死刑にした。死体を3日間晒して、革新派の人たちを威嚇した。これは瀕死の奴隷主貴族が新興封建勢力を残酷に鎮圧した、という事例である。

(43)新興の封建社会勢力も、奴隷主階級の専制を許しはしなかった。彼らは離間の計を用いて、魯の定公を一日中歌や踊り、酒に夢中にさせて、孔子(孔丘)に対してい冷たくさせた。孔子(孔老二)はおかしい気配を感じ、試しに魯の定公に辞職を提出してみた。

(44)定公は引き留めることはなかった。55歳の孔子(孔老二)は学生たちを連れて魯国を離れざるを得ず、別の国に行って奴隷制を復活させようと夢想した。この時、子路の親戚が衛国の君主の寵愛を受けている臣下であることを思い出し、コネを使えると思い、まず衛国に行くことを決めた。

(45)孔子(孔老二)は様々な手段を使って衛の霊公に謁見し、また”君君臣臣”や”克己復礼”、”亡くなった国と家を再興し、旧貴族を採用する”といった一連の主張を喧伝した。衛の霊公は魯国と同水準の報酬で彼を採用することに同意した。

(46)衛国の新興地主勢力は早くから孔子(孔老二)を警戒しており、衛の霊公に「孔子(孔老二)は多くの従者をつれており、もしも彼が何かを画策すれば大変です」と警告していた。霊公も用心して、腹心を派遣して孔子(孔丘)を監視させた。孔子(孔老二)がどこに行くのも、この人は一緒についていった。

(47)孔子(孔丘)はこの扱いに耐え切れず、数か月もたたずに、学生たちと衛国を離れた。衛国辺境の匡城(今の河南省長垣)まで来たあたりで、突然、両脇から数百人の農民が飛び出してきて、彼らを取り囲んだ。

(48)これらの農民は奴隷から解放されたばかりの者たちで、彼らは孔子(孔老二)が各所を訪れて、奴隷制を復活させて、奴隷主貴族による支配を復活させようとしていると知り、孔子(孔老二)を殺害しようとしていた。孔子(孔丘)の学生たちは、みな驚いて顔色をなくし、どうしようもなかった。

(49)匡城の農民たちは孔子(孔丘)たちを5日間包囲し、彼らに動くことを許さなかった。孔子(孔老二)は車の中で震えながら「私は中国文化の継承人だ。もし神が文化を滅亡させようとしているなら私ももう終わりだ。もしも神が文化を滅亡させようとしていないなら、匡城の人たちは私をどうにもできない」と自画自賛した。彼はまた”天命”を持ち出して、仲間を勇気づけたのだ。

(50)最後に、孔子(孔老二)は卑怯な手で、学生たちを農民のもとに派遣して哀願させて、やっと包囲は解かれた。

(51)彼らはぼろぼろになって黄河までやってきた。まさに黄河を渡って晋国に行こうとしたとき、晋国の権力者の趙筒子が旧貴族を二人殺害したという情報が伝わってきた。孔子(孔老二)は驚いて、晋に入ることが出来なかった。彼はこうこうと流れる濁流をみながら「神よ。黄河を渡ることができないのも、きっと運命なのだろう」と嘆いた。

(52)別の道がないため、孔子(孔老二)は厚かましくも衛国に引き返した。衛の霊公は彼がまたやってきたのを嫌がり、ある時わざと「どのように戦争すべきか意見を聞かせてくれ」と問うた。孔子(孔老二)は「私は戦争はできません。礼を行うだけです」と答えた。霊公は孔子(孔丘)を相手にせず、頭をあげて天を飛ぶ雁の群れを見ており、孔子(孔老二)は非常に居心地が悪かった。

(53)衛国には居場所もなく、孔子(孔老二)は不愉快ながらも宋国の領内にやってきた。この日、彼と学生は大樹の下で休み、”周礼”の演習をしていた。すると突然、名を桓魋という宋国の司馬(軍隊を管掌)を先頭とする人たちがやって来た。

(54)桓魋は宋国の新興地主で、奴隷主の忠実な下僕である孔子(孔老二)をとても恨んでいた。彼は部下に命じて大樹を倒させ、まだ偉そうに言うなら孔子(孔丘)を殺すと言った。孔子は強がりながらも恐怖して、ぶつぶつと「私は天から与えられた才能があり、彼が殺そうとしても私は恐れない」と言いながら、さっさと逃げてしまった。

(55)この後、孔子(孔老二)は陳国、蔡国、楚国を訪れたが、どこも”天下大乱”の時代であり、彼の”克己復礼”という時代に逆行した主張は、どこでも需要がなかった。孔子(孔老二)は一生懸命「私を重用してくれれば、一年以内に結果を出す」とうそぶいたが、誰も彼を信じる者はいなかった。

(56)陳と蔡の国境付近で、孔子(孔老二)は当地の新興地主に郊外で包囲された。数日間食べ物もなく、学生も病に倒れた。孔子(孔老二)は学生に「私は虎でもなければ野牛でもない。このように落ちぶれて荒野をさまよっているのは何故だろう」と問うた。子貢は「先生の主張は、今の世の中では通らないからです」と言った。孔子(孔老二)はこれを聞くと大いに怒った。

(57)愛弟子の顔淵は「我々の主張は素晴らしいのに、各国の権力者はこれを実行しない。これは彼らの恥である。彼らが我々を顧みない事により、更に我々が偉大であると示している事になるのだ」と耳ざわりの良いことを言った。孔子(孔丘)は「すばらしい!顔家のせがれよ!もしもお前が金持ちだったら、きっと会計を任せていただろう」と何度も賞賛した。

(58)労働者たちは頑固派の孔子(孔老二)を大変軽蔑し憎悪していた。鄭国では、孔子(孔丘)と門徒たちは離れ離れとなり、孤独に城の東門に佇み失望していた。鄭国の人たちは彼を”家を失った犬”と罵った。子貢がこの話を孔子(孔老二)に報告すると、孔子(孔老二)も自らが”誰も顧みない家を失った犬のようだ”と認めざるを得なかった。

(59)孔老二と学生たちは蔡国に向かう途中で道に迷った。孔子(孔老二)は子路を派遣して、畑を耕していた二人の農民に道を聞きに行かせた。全身汗びっしょりになった身長の高い農民が「車の上に載っている老人は誰だい?」と逆に聞いてきた。子路は「孔子(孔丘)様だ」と答えた。

(60)身長の高い男は「魯国のあの孔子(孔老二)か?」とまた聞いてきたので、子路は頷いた。彼は「ふん!」と冷笑し、「彼は天才なのだろ、道なんて知っているはずだ、どうして俺に聞くんだ」と言った。

 

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漫画で分かる孔子の一生4(中国語連環画日本語翻訳)

中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、中国式の漫画)から「孔子の罪深い一生」(原題:孔老二罪恶的一生)をご紹介。孔子と言えば中国では文聖とも崇められ、個人としてはおそらく最も尊敬され ...

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