生涯で300人以上の首を切った中国最後の首切りによる死刑執行人である鄧海生の物語をご紹介したい。日本の江戸時代にも山田浅右衛門が首切りを行ったように、中国でも国家から委託されて首切りを生業とするものが居た。山田浅右衛門が3万石の大名と同じくらいの収入があったというように、彼もお金には困らなかったが、罪の意識から出家をしようとしても断られ、生涯結婚してくれる女性もなく、晩年は悲惨なものであったという。
中国の首切り人の概要
古代から中国では、因果応報が信じられており、首切り人になりたいと思う人はあまり居なかった。しかしながら、朝廷が高額の報酬を支払うため、生活に困窮している貧乏人が死刑執行人になった。鄧海生もこのような貧乏人であった。
首切り人と言っても一生懸命に刀を練習しなければならず、カボチャや冬瓜を使って訓練し、ある程度の腕間になって初めて刑場に立つことを許されたという。
清朝が滅亡すると、当時の北洋政府は死刑の方法を銃殺と改めたものの、当時は軍閥が多すぎてコントロールできていなかった。各地の軍閥は見せしめによる犯罪抑制を目的に、従来通りの首切りを好んで用いた。
そのため、首切り人という職業はなくなることはなく、清朝滅亡後も鄧海生が失業することは無かった。彼が60歳の時、法律で銃殺が明文化されると、ついに鄧海生は失業したのである。
北京の死刑場
北京の死刑場は清朝初期に菜市口に定められた。現在の西城区の菜市口大街があるあたりである。下の地図で見ると、天壇公園の西側あたりにあたる。
清朝初期に、満州民族は北京城内に住み、漢人は北京城外に住むという風に区別され、北京城外にあたった菜市口のあたりに刑場が移されたと言われている。これは、公開で死刑にすることにより、漢人への見せしめとするためであった。
清朝末期の写真が残っているが、多くの観衆が見物に来ているのが分かる。この場で、戊戌の政変に参加し死刑となった譚嗣同などの六君子や義和団に参加した多くの民衆たち、その他多くの人たちの命が消えていったのである。
高額な報酬
鄧海生が語ったところによると、死刑執行に当たっては、彼は刀に酒を一口吹きかけていたようである。死刑囚の注意力を分散させるため、別の人が刀を持って死刑囚の前面に立ち、犯人が前ばかり気にしているときに、彼が後ろからこっそりと突然刀を振るい、犯人の反応が間に合わないうちに、死刑を執行していた。任務が終了して刑場を離れるときには、後ろを振り返らないようにしていた。
鄧海生は当時、一人を斬るごとに4両の銀をもらっており、これは普通の人の1年分の収入に相当するかなりの高収入であった。
また犯人の家族からも紅包(祝儀のお金)をもらっていたという。これは優しく首を切ってもらったお礼というようなものではない。当時、中国では、首と体が離れてしまうと、埋葬できず、刑場に野ざらしにされたため、犯人の家族は、皮一枚つながるように首を切ることを願ったという。これが成功すると遺体をすべて持って帰ることが出来たのである。鄧海生は剣技が優れた首切り人であり、これを簡単にやってのけたという。
また、この時代の人はその他にも多くの迷信を信じており、人の血は病をいやすことが出来ると言われていたが、鄧海生に賄賂を渡さないと、血に触れることが出来なかった。
そのため、彼はお金に困ったことは無かったが、女性には事欠いた。彼を見ると男性も震え上がり、親戚や友人も彼と交流しようとはしなかったという。女性は言うまでもなく、ましてや妻をめとることは難しかった。
悲惨な最期
彼の晩年は悲惨なものであった。生涯で殺した人数が多すぎて、いつも内心不安を抱え、たびたび悪夢を見たという。そのため、彼は善行を積もうと、家財を寄付したりもした。何度か出家して僧侶になろうとしたが、寺から拒否された。生涯結婚もできなかったため、息子も娘もおらず、最後を看取るものもいなかった。
迷信が多かった時代であり、運命が悪いとされた女性が、彼と数日間を過ごし、その殺気で運命を変えようとすることはあったようである。
晩年の鄧海生には頼る者もなく、何日も食べずに念仏を唱えては、自らの罪の贖罪を祈ったそうであるが、僧侶になることもできず、最後には孤独に亡くなった。
臨終の際には「人を殺すと言っても、国家の法律に則って行っただけなのに、私に何の罪があるというのだ?」と不平をこぼしたと言う。