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凌遅刑(りょうちけい)により処刑された最後の囚人の物語

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凌遅刑(りょうちけい)は別名、千のナイフともいわれ、鋭いナイフを使用して北京ダックのように囚人から肉を切り取る。その回数は、犯罪の重さにより異なる。凌遅刑(りょうちけい)は過去の中国では最も残酷な刑罰であり、一般的には反逆などの重大な犯罪に適用された。日本ではあまり情報として出てこないので、凌遅刑(りょうちけい)により公式に処刑された最後の囚人の物語をご紹介したい。

 

凌遅刑(りょうちけい)の歴史

 

その歴史は唐滅亡後の五代十国時代に始まると言われている。それ以前は死刑と言えば斬首であったが、異民族による征服王朝時代に恐怖で支配する必要から法制化されたと言われている。明王朝の法律には明確な規定があり、国家へのあらゆる反逆、皇帝の墓や宮殿を破壊しようとするものに適応されると規定されていた。共犯者も首謀者も関係なく、全員、凌遅刑(りょうちけい)となった。それぞれの王朝により、凌遅刑(りょうちけい)のプロセスは異なっていたという。

 

まず額の皮をきって、目が見えないようにしてから執行することもあったという。執行側も目があうと執行しにくかったようである。また、親族が事前に執行側にお金を渡し、苦しまずに死ねるようにお願いをすることもあったようである。その方法は秘密であったようであるが、手順によっては、苦しんだり、苦しまなかったり、というようにコントロールすることが可能だったようである。

 

3357刀を受けた明の時代の宦官、劉瑾

凌遅刑(りょうちけい)で特に有名なのは、明の時代の宦官、劉瑾である。皇位簒奪を計画した罪により凌遅三日を宣告され1510年に処刑された。すぐに死ぬことを許されず、絶命するまで3,357回も体を切られたといわれている。記録によると、一日目に3000刀ほどを加えられたが、死ぬことはなく、夜はいったん獄舎に戻された。夕食の粥をお代わりし、二杯を完食したという。二日目に400回程度切り刻まれた時点でついに死亡したと言われている。

 

明の諸葛孔明と呼ばれた悲劇の名将 袁崇煥

明の最後の皇帝である崇禎帝に仕えた名将である袁崇煥(えん すうか)は、その軍略で後金の軍隊を何度も退け、明の諸葛亮孔明と呼ばれた。軍略のみならず、兵に対しても思いやり深い人物で高い人気を誇ったが、後金のホンタイジにより宦官が買収され、謀反の疑いを掛けられ凌遅刑(りょうちけい)で処刑された。袁崇煥亡きあと、明王朝は滅亡し、崇禎帝は故宮の北にある景山で首を吊り自殺することになる。

 

最年少と言われる清末の太平天国第2代指導者 洪天貴福

また、清末の太平天国の乱を指揮した洪秀全の長男、太平天国第2代天王である洪天貴福も有名である。1864年に父が病死すると南京で幼天王として即位したが、同年捕らえられ、15歳で凌遅刑(りょうちけい)に処せられたという。この刑の最年少記録と言われている。

 

 

凌遅刑(りょうちけい)は残酷すぎたため、欧米からもたらされる民主主義の影響もあり、清王朝の末期には人々の不満が高まり、1905年に光緒帝は凌遅刑(りょうちけい)の廃止を宣告した。

 

凌遅刑(りょうちけい)に処せられた最後の中国人

 

それでは、中国で最後に凌遅刑(りょうちけい)に処せられたのは誰か?公式な記録では、康小八(本名は康小八、また呉禿子とも名乗っていた)である。北京と天津を拠点とした大盗賊であり、民間人からは義賊として人気があったという。彼の物語は落語の題材にもなり、あの有名な老舎も小説として取り上げている。

 

康小八は小さいころから悪ガキで、いつも悪党グループと付き合い、家畜を盗むなどの悪いことばかりしていた。康小八の性格は荒く、小さい時から拳法の練習をしており、平地を走るからのように屋根の上を走ることができたという。何度も小さな悪事を働いたのち、康小八は大きなことをやりたいと思い、盗賊の一団と結託して、何度も国家の公金を略奪し、時の権力者である西太后を激怒させた

 

西太后はなんとしてでも彼を捕まえるように命令を下した。康小八は、なんども清の追っ手をまいた。しかし、最終的には、清王朝がかけた多額の懸賞金と民間人の協力により彼は逮捕された。母親が病気であるという偽の情報によりおびき寄せられた康小八を政府が依頼した拳法の達人により逮捕されたという。康小八が逮捕されたと知ると、西太后はとても喜び、わざわざ頤和園に彼を呼びつけて謁見した。

彼は、西太后の前でも彼は傲慢な態度をとり続けた。ひざまずかないばかりか、西太后と後ろの女官を見比べて、あの女は口が大きいだの、腰が太いだのと言った。そして、こともあろうか西太后の顔が長いといった。また、彼が言った「盗むなら清王朝の金を盗みたい、遊ぶなら皇后と遊びたい」という言葉が西太后をカンカンに怒らせ、すぐに凌遅刑(りょうちけい)を命じた。1905年の事である

 

凌遅刑(りょうちけい)の執行にあたり、彼はたいしたもので、一言も叫び声をあげなかったという。執行側が目隠しをするか尋ねても「せっかく俺の体が切り刻まれるのだからしっかり見たい」といったという言い伝えも残っている。一言も叫び声をあげなかった事に感心した執行側が、最終的には、彼が苦しまないように心臓を一突きしたという。

 

凌遅刑(りょうちけい)の写真や画像は残っているのか?

 

ちなみに、実際の凌遅刑(りょうちけい)がどのようなものだったのか、実はたくさんの写真が残っている。

 

このホームページには掲載しないが、画像が見たい人は百度で検索すると、中国のサイトに掲載されている実際の写真がたくさん出てくる。

 

なお、少々グロいのでクリックはご注意を。baidu.com

 

まとめ

 

というわけで、今回は、日本ではあまり紹介されていない物語をご紹介した。

 

ちなみに、“公式”と書いたが、実は地方で私刑的に行われた凌遅刑(りょうちけい)は、この後も数回あったようである。また別の機会があればご紹介したいと思う。

 

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