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漫画で分かる孔子の一生1(中国語連環画日本語翻訳)

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中国で50~60年代に流行した連環画(子供向けの絵物語、中国式の漫画)から「孔子の罪深い一生」(原題:孔老二罪恶的一生)をご紹介。孔子と言えば中国では文聖とも崇められ、個人としてはおそらく最も尊敬されている最高の人格であるが、文革時代には、封建主義の象徴として、林彪と一緒に批判の対象となった。この時に書かれたのが今回の連環画で、孔子が非常に批判的に描かれており、貴重な資料となっている。ただ、孔子の一生を勉強するという意味では有益である。

 

タイトル:孔老二 罪悪的一生

※孔子の子は先生を現す尊称であるが、文革期には本名の孔丘と呼びすてされ、さらには孔老二(孔家の次男坊)と蔑称されたため、このようなタイトルとなっている

(1)春秋時代は、我が国の社会が奴隷制から封建制に移行しようとしていた。激しい奴隷による反乱と、新興地主階級による権力闘争が、奴隷制統治の基礎を猛烈に揺さぶっていた。失敗した奴隷主階級は、様々な方法で失った”天国”を奪い返そうと試み、社会の階級闘争は複雑で激しかった。

(2)この奴隷制が崩壊し、封建制がまさに始まろうとしていた大変革の時代に、奴隷主階級の政治的な代表である孔丘は紀元前551年の魯国(現在の山東)で生まれた。孔丘は次男坊で、字を仲尼(ちゅうじ)と言い、祖先は宋国の貴族で、父親の孔紇(こうこつ)は破滅した奴隷主であった。

(3)孔子(孔老二)は自らが奴隷主貴族の子孫であることを忘れず、小さい時から貴族の生活に憧れ、椀や祭壇で祭りごとをして、貴族の祖先のようにぬかずき礼を行って遊んだ。

(4)15歳になると、孔子(孔老二)は一生懸命に周王朝の奴隷制の典礼制度を勉強し、奴隷主貴族の六芸(礼、楽、射、御、書、数)を勉強し、将来頭角を現し、人の上に立って、威張り散らしたいと思った。

(5)孔子(孔丘)は権勢がある人達と交友し、一歩一歩政治の舞台を上ることを切望した。ある時、魯国の新興地主階級の季孫氏が宴を設けて賓客を接待した。母を亡くしたばかりの孔子(孔老二)は、自分は貴族の子孫だと思い、白い麻の服を着て喪に服しているのも顧みず、急いで宴会に参加しに行った。

(6)季孫氏の家の門を入ろうとすると、季氏の家臣の陽虎は彼を激しく罵り、彼を階段から突き落とした。孔子(孔老二)は、新興封建社会の勢力が台頭すれば、奴隷貴族はみじめな思いをすると気づいた。彼を歯ぎしりをして、奴隷制度を復活させることを誓った。

(7)孔子(孔丘)は19歳になると結婚し、翌年子供をもうけた。魯国の王である昭公がわざわざ一匹の鯉を祝いに送ってきた。孔子(孔老二)は驚き喜び、子供を孔鯉と名付けて、いつの日か家を再び栄えさせ、祖先にはなむけしたいと望んだ。

(8)孔子(孔丘)は再び奴隷制度を復活させるため、官僚になりたいと思った。26、7歳になると、ついに機会がやってきて、”乗田”という馬や羊を管理する官職についた。のちに、また”委吏”という倉庫の会計となった。孔子(孔老二)は下級官僚であったが腐らずに、一生懸命仕事をした。彼は、将来這い上がっていくための、基礎を作ろうとしたのだ。

(9)孔子(孔丘)は三十歳になると私塾を開き、広く門徒を募集した。彼は募集する生徒の階級を厳しく規定し、当時自由な身分の奴隷はいなかったが、そもそも入学の権利が無かった。また、彼は学生から学費を脅し取り、誰かが入学のためにやってくると、彼は手を伸ばして「お前が面会の礼として干し肉を10個納めるのなら教えてやるぞ」と言った。

(10)孔子(孔老二)のところで勉強できたのは、全員貴族で、官僚の子弟ばかりであった。孔子(孔老二)は講義を利用して、徒党を組んで、奴隷制の復活を唱えるものを育成していった。彼はまったく”全民教育家”ではなかった。

(11)春秋末期、各地で頻繁に奴隷の反乱が起こっていた。鄭国の大暴動では、立ち入り禁止となっていた地域が占領され、統治階級はとても慌てた。孔子(孔老二)は奴隷の反乱をとても恐れて、恨み、一生懸命鎮圧を主張した。

(12)鄭国の奴隷主貴族は残虐にこの暴動を鎮圧し、反乱に参加したすべての奴隷を殺害した。孔子(孔老二)は大声で素晴らしいと叫び「奴隷に対して寛大すぎると造反する。厳格に鎮圧してこそ、悪い根っこを取り除けるのだ」と言った。殺気立っており、これは彼の革命に反対する一面を示している。

(13)魯国には当時、孟孫、叔孫、季孫という3つの新興地主が居り、勢力はとても大きかった。家臣出身の季孫氏は、周の天子の体裁で、家の祠で64人を用いて音楽や舞いを行った。泰山を祭るのも元々は周の天子の仕事であったが、季孫氏は泰山にも祭り、周の天子のことなど眼中になかった。

(14)孔子(孔老二)はこれらを”身分をわきまえず、反乱をおこそうとしている”行動であると思い、怒り心頭で「これが続けば我慢できない」と罵った。また、魯国の王の権力が無くなりつつあるのを憂慮して「このように発展していけば、本当に危険だ」と嘆いた。

(15)孟孫、叔孫、季孫の三家の勢力はますます大きくなり、魯の昭公は国内の基盤を失い、斉国に逃亡せざるを得なくなった。孔子(孔老二)も主人と一緒に斉国に行ったが、道すがらどのようにコネを頼って、斉の景公から職をもらうか考えていた。

(16)斉の景公は孔子(孔丘)に接見し、政事について教えを乞うた。孔子(孔老二)は「君は君、臣は臣、父は父、子は子」と力説した。この意味するところは、君主は君主らしくあり、臣下は臣からしくあらねばならない、このようにすれば奴隷主統治の旧秩序を維持できる、という事であった。彼はこの道理を”正名”と言った。

(17)景公はこれを聞くとしきりに賞賛して「その通りだ!もしも君主が君主らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなければ、倉庫が米で満たされていても、平和な日々を送ることはできない」と言った。一言で、”正名”の奴隷制を擁護する反動的な実質を言い当てたのである。

(18)孔子(孔老二)はまた”亡くなった国と家を再興し、旧貴族を採用する”という考えを提案した。これは、滅亡してしまった奴隷制国家と世襲の地位を失ってしまった貴族を復興させ、没落した旧貴族を起用する、という事である。この全面的に奴隷制を復活させるという主張は、斉の景公の賞賛を受けた。

(19)景公は喜ぶと、土地を孔子(孔丘)に与えようとした。執政大臣の晏嬰は反対し「孔子(孔老二)という儒者は詐欺師です。周王朝はすでに没落し、このような古い制度はすでに使えなくなっており、彼は反動しているだけです。このような人間を重用すればかならず災いを招きます」と言った。

(20)景公は孔子(孔丘)を重用することができなかった。次に会った時には教えを乞う事もなく、言い訳して「私も老いた。貴方を招いて何かをする精力もない」と言った。孔子(孔老二)はこれを聞くと、一気に冷めて、荷物をまとめて出ていく用意をしなければいけなかった。

 

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漫画で分かる孔子の一生2(中国語連環画日本語翻訳)

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